十一月十六日。月曜日の夜。
神家の座敷では、日の本寺の住職や村長たちが集まり、夕方からささやかな宴会が催されていた。前日に行われた衆参議院の同時選挙で、貴明が下馬評通り、二位以下を大きく引き離してトップ再選を果たしたことを祝うための宴だった。
宴もたけなわになった頃、燗《かん》をつけたばかりのお銚子を数本盆に載せて、台所から座敷に続く長い廊下を急ぎ足で歩いていた神美奈代は、ちょうど座敷を出てきた聖二に呼び止められた。
「話があるから、手がすいたら部屋に来るように」
夫はそれだけ言うと、自分の部屋の方へすたすたと行ってしまった。
美奈代はなんとなくドキリとした。
話って……。
何だろう。
夫の顔付きはそんなに厳しいものではなかった。宴会の席でも、終始、上機嫌に見えた。
それでも、なんとなく嫌な予感をおぼえながら、美奈代は、銚子を載せた盆を座敷に運んで義弟の嫁の一人にそれを託すと、すぐに踵《きびす》を返して、聖二の部屋に向かった。胸を不安に波打たせながら……。
「あの、お話って……?」
夫の部屋に入って、おそるおそるそう訊《たず》ねると、聖二はすぐには答えず、珍しく酒にでも酔ったのか、いつも文鎮代わりにしている古いお手玉を片手でもてあそびながら、しばらく放心したように座椅子によりかかっていたが、
「……武に、日美香の父親のことを話したのはおまえか」
と、美奈代の方を見ないで静かな声で聞いた。
決して怒声ではなく、声自体はまるで独り言でも呟《つぶや》くような、聞き取りにくいほど低く穏やかなものだったにもかかわらず、美奈代は、一瞬、頭から冷水を浴びせられたような気がした。
ばれた。
咄嗟《とつさ》にそう思った。
「おまえなのか。日美香が兄の子だと武に教えたのは?」
聖二はもう一度聞いた。
やはり前と同じ静かな声だった。
「……」
美奈代は唇を噛《か》み締めて、ただ頭をたれて黙っていた。
武が話してしまったのだろうか。あれほど、誰にも言わないと約束したのに……。
もし、ここで、そうだと認めたなら、夫はどんな態度に出るつもりだろう。それを考えると恐ろしかった。
半年ほど前、日美香の実父のことを誰かに漏らしたら、家から叩《たた》き出されるだけでは済まないと思えと、この部屋で言い渡されたことを思い出した。
美奈代は思わず身震いした。
そう言い渡したあと、じっと自分を見つめていた夫の恐ろしい目を思い出して……。あれは獲物を射竦《いすく》める蛇の目だった。
「どうして何も言わないんだ。沈黙ということは認めたと受け取っていいのか」
聖二はさらに聞いた。
「……武さんから何かお聞きになったんですか」
何度も唾《つば》を飲み込みながら、美奈代は恐怖のあまりカラカラに乾いた喉《のど》から言葉を絞り出すようにして、ようやくそれだけ言った。
「武からは何も聞いてないよ。郁馬から聞いたんだ」
「郁馬さん?」
美奈代はうつむいていた面を思わずあげて夫を見た。
夫の顔つきは意外に穏やかで、少なくとも表面からは、さほど怒りの色は窺《うかが》えなかった。相変わらず、半分無意識のように、手の中でお手玉をもてあそび続けている。
「祭りの前日に誰かが武によけいなことを吹き込んだようだ。武と日美香が実は異母姉弟《きようだい》だとかいう。それで、混乱した武は郁馬に相談をもちかけたらしい。郁馬の話では、武は最後まで、告げ口の主のことは打ち明けなかったそうだが、日美香の父親のことを知っている者といえば、この村でも限られているし、日美香が自分で話すわけがない。あの状況で、それを武に告げることができたのはおまえしかいない。そう思ったんだが違うのか。違うなら違うと言えよ」
「……ち、違います。わたしじゃありません。わたしは武様に何も話していません」
美奈代は反射的にそう答えていた。
こんな見えすいた嘘がこの夫に通るわけもなかったが、武が直接自分の名前を出したのでなければ、なんとか言い逃れることができるかもしれないと思ったからだ。
「違うのか」
聖二は確認するようにもう一度聞いた。
「違います」
美奈代は頭をたれたまま答えた。
「も、もしかしたら、よ、耀子様では……? 耀子様もあのことには気が付いておられたみたいですから」
苦し紛れにそんなことまで口走ってしまった。口にしてしまってから、こんな人に罪をなすりつけるようなことをとすぐに後悔したが、夫はそのことに関しては何も言わなかった。
その沈黙の時間が美奈代にはひどく長く感じられた。
やがて、聖二は、それまで手でもてあそんでいたお手玉をポンと放り出すように卓の上に戻すと、いきなり、すっと立ち上がった。
そして、何も言わず、座を立つと、書斎の奥にある部屋に入って行った。
そこは夫の寝室だった。
何年も前から夫とは寝室を別にしていた。
美奈代は、何も言わずに寝室に入って行った夫の静かすぎる気配に、逆にどこか殺気だったものを感じていた。
もしや……。
寝室の床の間には、先々代の宮司が求めたという一振りの日本刀が守り刀として飾られている。
夫はあれを取りに行ったのではないか。
そんな予感が突如として頭に閃《ひらめ》いたのだ。
あんな嘘を夫が信じるわけがない。
素直に認めていればまだ許して貰《もら》えたかもしれなかったのに、なまじすぐにばれるような嘘をつき、おまけに他人に罪をなすりつけるような悪あがきをしたために、本当に夫の怒りを買ってしまったのかもしれない。
あれでわたしは斬られる……。
美奈代は固く目を閉じた。
たとえ、ここで聖二に「お手打ち」になったとしても、そのことは決して外部には漏れないだろう。事故か病死ということで内々で片付けられてしまうに違いない。それとも、遺体は隠され、失踪《しつそう》したとでも取り繕われてしまうのだろうか。
この村はそういう所だ。ここでは、誰もが、美奈代一人の命などよりも、村の「生き神」的存在である聖二の方を守るに決まっているからだ。
わたしは斬られる。
でも、今ならまだ逃げられる。美奈代は目を開けて、泳ぐような視線で戸口の方を見た。幸い、今夜は宴会をやっている。外に出て悲鳴をあげれば誰かが来てくれる。座敷にはまだ村長である兄がいるはずだ。兄に助けを求めれば、実の妹が目の前で殺されるのを黙って見てはいないだろう。夫を宥《なだ》めるか止めてくれるかもしれない。兄が助けてくれるかもしれない……。
逃げなければ。
美奈代は立ち上がって部屋から出ようとした。しかし、恐怖のあまり、腰が抜けたようになって動けなかった。まるで金縛りにあったようだった。這《は》ってでも外に出なければと、気ばかり焦っているうちに、聖二が戻ってくる気配がした。
それは時間にすればほんの数分、いや数十秒に過ぎなかったのかもしれないが、美奈代にとっては、まるで何時間かが過ぎたような重苦しい感覚があった。
ああ、もう駄目だ。
聖二の戻ってきた気配に、美奈代は観念した。
きっと夫の手には鞘《さや》を払ったあの日本刀が握られている……。
そう思い込んで、顔をあげた美奈代が見たのは、しかし、青光りする抜き身をさげた夫の鬼気迫る姿ではなかった。
聖二は確かに何かを持って戻ってきたが、それは日本刀ではなかった。片手にすっぽり入るくらいの小さな箱のようなものだった。
それを持って戻ってくると、手にしたものを卓の上に置いて、美奈代の方に滑らせるように押しやった。
美奈代はそれを口を開けて茫然《ぼうぜん》と見ていた。それは青いビロード地の宝石箱を思わせる小さなケースだった。
「……一日早いが」
聖二はそれだけ言った。
一日早い?
まさか、この宝石箱のようなものは……?
「これをわたしに?」
信じられない思いで夫に聞くと、夫は頷《うなず》いて、
「サイズは結婚|指環《ゆびわ》と同じものにしたんだが、今も合うかどうか……」
とやや照れたように言った。
サイズ?
結婚指環?
美奈代はあまりにも予想外の展開に、ひどく混乱しながらも、わななく指でその小さな箱を手に取り、蓋《ふた》を開けてみた。
その口から声にならない声が漏れた。
箱の中には、白絹に包まれて、黄金色に燦然《さんぜん》と輝く大粒のカラーストーンの指環が入っていた。