それは粒の大きさといい、オレンジがかった金色のシェリー酒を思わせる深い色合いといい、素人目にも最高級と分かるトパーズをあしらった豪奢《ごうしや》な指環だった。
小さいがダイヤモンドも数個周囲にちりばめてある。
トパーズといえば、十一月の誕生石である。それに、明日、十一月十七日は、美奈代の四十一回めの誕生日でもあった。
ということは、この指環は……。
夫からの誕生プレゼント?
そういえば……。
美奈代はあることを思い出していた。
先日、耀子の部屋に洗濯物を取りに行ったとき、耀子が何げない風で、「もうすぐ美奈代さんのお誕生日ね」と話しかけてきて、そのあとで、「今年の誕生日は何かとても良いことがあるかもよ……」とあのいつもの謎めいた眼差《まなざ》しで言ったことを。
耀子の「何か良いこと」というのは、このことだったのだろうか。
もしかして、耀子が夫に口添えして……?
ようやくそう思い至って、美奈代は弾《はじ》かれたように顔をあげた。
礼を言うのも忘れて、夫の顔をただ見続けていた。
「何をぼうっとしているんだ。ちょっと嵌《は》めてみなさい。サイズが合わないようなら作り直させるから」
聖二は少し笑っているような顔でそう言った。
「は、はい……」
美奈代は、まだ震えの止まらない指で、ケースから指環を出すと、それを自分の薬指に嵌めようとした。
二十年前だったら、すっと難無く入ったはずの指環がなかなか入らない。二十年間の家事労働で、すっかり荒れて節くれだった男のような指には、その指環は少しきつすぎた。
「小さいか……?」
聖二は心配そうに聞いた。
「い、いえ、大丈夫です」
慌ててそう言い、無理やり力を入れて嵌めこむと、指環はようやく指に収まった。
自分の太い指を彩るその黄金色の輝きに、しばし、うっとりと目を奪われていると、
「……日美香のことだが」
聖二がふいに言った。
「あれは兄の娘ではないよ」
「えっ」
美奈代は思わず顔をあげた。
「あることが分かってな……。それで、兄の子ではないことが分かった」
聖二はそんな曖昧《あいまい》な言い方をした。
「あることというのは……?」
「それはおまえが知る必要のないことだ。神家の家伝に関わることだから」
「……」
この家の家伝書を読むことができるのは、神職につく者だけで、宮司の妻とはいっても、日女《ひるめ》ではない美奈代には、家伝を読むことは許されておらず、その内容さえも知らされていなかった。
「とにかく日美香の父親は兄ではなかったということだ」
「……ということは、日美香様と武様は異母姉弟ではなかったということですか?」
美奈代は確かめるように聞いた。
「そういうことだ。だから、おまえも太田から何を吹き込まれたか知らないが、この件に関してはすべて忘れろ。いいな?」
「あの……それじゃ、やはり、武様を日美香様のお婿さんになさるおつもりで……?」
美奈代はおそるおそる訊《たず》ねた。
「その件もなくなった」
聖二はにべもなく言い放った。
「なくなった……?」
「当人同士が望みさえすれば、私はそれでもいいと思っていたんだが、武に打診してみたら、この家に婿養子に来る気はないときっぱりと断られた。日美香の方も武を婿にする気はないそうだ。当の二人が望まないものをこれ以上進めようがない。だからこの縁談《はなし》は白紙に戻す」
当の二人が望まない……?
美奈代はいぶかしく思った。
美奈代の目には、武も日美香も互いに好意以上の感情を持ち合っているように見えたからだ……。
あの日、台所の窓から見た光景……。
物置小屋の前で日課の薪《まき》割りをしていた武に、日美香がタオルを渡していたときの二人の仲むつまじげな様子。あれはどう見ても相思相愛の若い恋人同士のようだった。
もっとも、武に日美香が異母姉《あね》であることを告げてしまったのは美奈代自身であり、そのことが、二つ年上の美しい従姉《いとこ》に恋愛感情めいたものを抱きかけていた武の心にブレーキをかけてしまったのかもしれないが……。
それにしても、今ひとつ釈然としないのは日美香の方だ。風邪で寝込んだ武の看病を自分がすると言い出したりして、てっきり武に対して恋愛感情めいたものをもっているのかと思っていたが……。
結局、それは、姉が弟に抱くような家族的な愛情にすぎなかったのだろうか。
「それともう一つ言っておくことがある」
聖二はさらに言った。
「場合によっては、正月が過ぎても、日美香はこのままここに滞在することになるかもしれない。そうなれば、おまえにも何かと世話をかけることになるかもしれないが、そのときは、よろしく頼む」
美奈代には聖二の言葉の意味が今一つ理解できなかった。
武が帰ったあとも、日美香がこの村に残っているのは、門外不出の家伝書を完読するためだと聞かされていた。
それなのに、家伝書を読み終えても、まだここに滞在し続けるということなのだろうか。なんのために……?
「あの……場合によっては、とはどういうことでしょうか……?」
そう聞くと、
「だから場合によってはだよ。年内にははっきりするだろう。このままここでずっと暮らすか、あるいは、別の生き方をするか」
聖二はそんな言い方をした。
場合によっては……。
年内にははっきりする……。
どうも夫の言わんとすることがよく分からない。
大学を休学しているらしい日美香が、年内には自分の身の振り方をはっきりと決めるということなのか、それとも、この先何かが起こって、それによって、彼女の運命が決定するとでもいう意味なのだろうか。
「……わかりました」
よく分からないながらも、これ以上あれこれ質問して、夫の機嫌を損ねるのもこわいので、美奈代は仕方なくそう答えた。
「話というのはそれだけだ」
聖二はそう言うと、腕時計をちらりと眺め、もう行ってもいいという仕草を見せた。
「あの、あなた……こちらにお酒の用意を致しましょうか」
美奈代は立ち上がりかけて、ふと思いつき、そう訊ねてみた。
祭りの夜のように、座敷での酔っ払いたちの乱痴気騒ぎに辟易《へきえき》して、一人で部屋で静かに飲みたいのではないか。
そう思ったのである。
「酒はいいから、二人分のお茶の支度だけしてくれ。何か甘い菓子でも添えて」
しかし、聖二はそれだけ言った。
「……はい」
二人分……?
甘い菓子?
一瞬そう思いながらも、美奈代は素直に頷《うなず》くと、指環ケースを大事そうに胸に抱え、部屋を出た。
ちょうどそのとき、廊下の向こうから、一冊のノートをたずさえた日美香がこちらにやって来るのにでくわした。
すれ違ったあと、振り返って見てみると、日美香はそのまま聖二の部屋に入って行った。