「あの……郁馬さんのことですが」
日美香は、ためらいながら言った。
「何か処分のようなことを考えているのですか? 武と大神役を勝手に交替したことで……?」
もし、郁馬がなんらかのお咎《とが》めを受けるなら、それが少しでも軽いものになるように頼み込むつもりで、そう聞いてみたのだが、
「本来ならば、祭りを司《つかさど》る神官でありながら、大事な神事をぶちこわしたわけだから、問答無用で刀の錆《さび》にしてやるところだが……」
聖二は言葉のわりには和やかな表情で言った。
「本人もかなり思い詰めて反省しているようだし、先に話を持ちかけたのは武の方だというから、あっちはお咎めなしでは片手落ちになる。それで、今回に限り、一カ月の便所掃除ということで大目に見るつもりだよ」
「トイレ掃除……」
「便所掃除といっても、うちはいまだに水洗ではないから体力的にけっこうきついし、何よりも、神職につく者が便所掃除というのは、心理的にかなり屈辱的な罰なんだ。一カ月間タップリ、朝晩、汚れた便器を己の不埒《ふらち》な心根に見立てて、隅々まで嘗《な》めるように奇麗に磨きあげろと言っておいた。うちの便器という便器が新品のようにピカピカになる頃には、あいつの腐りかけた性根も少しはまともになっているだろう。毎日点検して、少しでも汚れが残っていたら、この罰は、もう一カ月延長だ」
聖二はそう言って笑った。
「……」
この甘いのか厳しいのかよく分からない奇怪な罰にとまどいながらも、郁馬の命にかかわるような深刻な罰ではなかったことにほっとして、日美香もつられて少し笑った。
「郁馬にせよ美奈代にせよ、あんな言動に出たのは、こちらにも多少の責任があるような気もするしね……」
「美奈代さん?」
聖二の独り言のような呟《つぶや》きを聞きとがめて、日美香は問い返した。
郁馬のことは分かるが、美奈代とは……?
「今回の一連の不祥事の元を作ったのは美奈代だ。祭りの前日、病床の武につまらぬことを吹き込んだのは」
聖二は断定的な口調で言い切った。
「美奈代さんがそう白状したんですか?」
この部屋に来るとき、廊下で美奈代とすれ違ったことを思い出しながら言った。聖二の部屋から出てきたようだが、単に茶菓の支度を言い付けられたにしては、顔色が普通ではなかった。
まさか……。
「いや、白状はしなかった。でも、あれ以外に誰がいる? 問いただしたときの顔色から見ても、武に告げ口したのは美奈代に違いない。一見、柔順そうに見えるが、あれは郁馬なんかよりよっぽどしぶとい。知らぬ存ぜぬで最後まで白を切りとおしたよ。あげくの果てには、姉の耀子ではないかとまで言い出して」
聖二は苦々しげに言った。
「あの件については、姉も薄々感づいてはいたようだが、だからといって、軽々しくそれを口外するような人ではない。そんなことはこの私が誰よりも知っている。それを言うにことかいて、姉ではないかなどと。さすがにあれを聞いたときは、かっとして、いっそこの場で斬り捨ててやろうかと思ったが——」
「なぜ、そうなさらなかったんです? わたしなら迷わず斬ってます」
日美香の口調の烈《はげ》しさに、聖二は驚いたように、ちらと目をあげて養女の顔を見た。
「なぜかな。あんな苦し紛れの嘘をついてまで、自分のしたことを隠そうとしたからかな。郁馬の方は最初は渋りながらも、結局何もかも打ち明けた。だからその素直さに免じて許した。逆に美奈代の方は最後まで嘘を突き通した。だから許そうと思ったのかな……」
「嘘をついたのに許す?」
日美香は信じられないという顔をした。
「私はワシントンの父親じゃないからな。嘘も方便ってことさ。以前、美奈代に、あなたと兄の関係を他言したらこの家から叩《たた》き出すだけでは済まないと思えと言ったことがある。もし、あそこで美奈代が自分がやったとあっさり認めていたら、そう言った手前、こちらとしても何らかの制裁を加えざるを得なくなる。でも、あれが嘘をつき通してくれたおかげで、その嘘を信じる振りをしてそうせずに済んだ——」
「美奈代さんに制裁を加えたくないと思ったのは、それほどあの人が妻として大切だからですか。愛しているからですか」
やや沈黙のあと、日美香は挑むような目で聖二を見ながら聞いた。
「愛とかいう個人的な感情からじゃない。妻として大切というより妻として必要なんだ。この家に宮司の妻という存在は不可欠だ。対外的にも対内的にも。だから、多少の不祥事をしたからといって、すぐに叩き出すというわけにはいかない。そんなことをしたら、後釜《あとがま》を見つけなければならない。この歳になると、そう簡単に次が見つかるとも思えないしね」
「あなたならすぐに見つかると思いますが」
「……。この二十年、あれには何かと苦労させてきたし、妻としては申し分ない女だと思う。美奈代の方も、あそこまで白々しく嘘をつき通したということは、まだこの家に居座っていたいという気持ちの現れなんだろう。それなら、あえて叩き出すことはない。それに、兄のトップ再選を祝うめでたい夜に、しかも、座敷にはあれの実兄がまだ残っているというのに、まさか刃傷沙汰《にんじようざた》は起こせないじゃないか」
聖二は愚痴をこぼすような口調でそう言った。
「それでは、美奈代さんにはお咎めなしですか。それとも郁馬さんのようにトイレ掃除とか……」
日美香は不満そうな顔つきで聞いた。
「美奈代に便所掃除を命じても意味ないよ。毎日嫌というほどやり慣れていることだ。それでは罰にならない」
聖二はそう言って苦笑した。
「その代わりというか、逆に、今回は鞭《むち》ではなくて弄《あめ》を与えておいた……」
「弄?」
「鞭ばかり与えていたのでは、人も犬もなつかないさ。明日渡すつもりだった誕生祝いの指環《ゆびわ》をあえて今日渡した」
「あ、あのケース……」
日美香は思い出したように呟いた。
廊下ですれ違ったとき、美奈代が青いビロードの宝石箱らしきケースを大事そうに持っていたことを。
「一人になってあれを見るたびに、美奈代も少しは自分のしたことを反省する気になるだろう……」