その夜。
宴会後の座敷を片付け、家の仕事をすべて済ませてから、美奈代が自分の部屋に戻ってきたのは午前零時を過ぎた頃だった。
布団を敷き、寝間着に着替えてから、美奈代はつくづくと自分の指を見つめた。その指にはまだあのトパーズの指環が食い込むように嵌《は》められていた。
こんな大きな石を付けた指環などしていたら、家事をするには邪魔なので、台所に戻る前に、いったんはずしてケースにしまおうと思ったのだが、夫を失望させまいとして無理やり嵌め込んだせいか、抜けなくなってしまったのである。
仕方なく、そのまま付けて台所に戻ると、燦然《さんぜん》たる黄金色の光を放つ指環は、台所にいた義弟の嫁たちや、手伝いに来てくれた村長夫人をはじめとする近隣の女衆の注目をすぐに集めて、そんな指環をどうしたのだと口々に聞かれた。「主人から誕生祝いにもらった」と答えると、女たちの口からは一斉に羨望《せんぼう》と感嘆のため息が漏れた。
結婚前は長野市内の宝飾店に勤めていたこともある村長夫人などは、美奈代の指に嵌まっていた石を一目見るなり、「それはインペリアルトパーズと言って、トパーズの中でも最高級の石ですよ」と心底|羨《うらや》ましそうな顔で教えてくれた。
皇帝《インペリアル》のトパーズ……。
素人目にも高級品に見えたが、それほど良いものだったとは。
誇らしかった。
美奈代は、聖二と婚約したばかりの頃のことを思い出していた。そのときも、大粒のダイヤをあしらった婚約指環をもらい、それを指に嵌めて、こうして近所の女たちに見せて羨ましがられたことを。そのときの天にも昇るような嬉《うれ》しさ誇らしさのことを……。
あのときのような無邪気さは今はもうないが、それでも、この家に嫁いで以来、久々に味わう陶酔感覚だった。
結婚して二十年というもの、夫に誕生祝いなど一度も貰《もら》ったことはなかった。そもそも、あの夫が妻の誕生日を覚えていたということが驚きだった。とっくに忘れ果てていると思っていた。
それが突然……。
それにしても、一体、どういう心境の変化だろう。
この誕生祝いにしても、耀子が前以て知っていたらしいことを考えれば、耀子の口添えで渋々その気になっただけなのかもしれないが、それにしても、最近の夫はどこか様子がおかしい。
おかしいといっても、決して悪い方向にではない。むしろ良い方向にだ。美奈代だけでなく、家の者を含めた周囲の人間全般に対して、以前より寛大になり優しくなったように見える。
いや、最近といっても、夫の態度の変化の片鱗《へんりん》は、半年くらい前から少しずつ見えはじめていたような気がした。
半年前といえば……。
ちょうど日美香がこの村に初めて来た頃からだ……。
夫の態度が少しずつ変わってきたのはあの娘に原因があるのではないか。ふとそう思い当たった。
美奈代の思念がこの養女のことに至ったとき、それまで心を占めていた誇らしさ嬉しさが、風船を針で一突きしたように急速に萎《しぼ》んでいき、かわりに、何か得体の知れない黒い不安が徐徐に胸の内に広がりはじめた。
あの娘のことを考えると気が滅入《めい》る。
これまでは、神家の籍に入ったとはいっても、彼女の生活の場は東京であって、この村には週末くらいしか帰ってはこなかった。武の家庭教師という名目でしばらく滞在することになったと聞かされたときも、役目が終われば、また東京に戻って行くのだとばかり思っていた。内心では早くそうなればいいと願っていた。早くこの家からいなくなればいいと。
それが……。
正月までいるはずだった武が早々と帰ってしまった後も、あの娘の方はまだ居残っている。しかも、夫の話では、「場合によっては」正月が明けても、このままこの村で暮らすことになるかもしれないという。
全く理解できなかった。
同じ女なのに、あの娘のことは全く理解できない。何を考えているのか……。
こんな山奥の何もない村に、最新のファッション雑誌一冊手に入れるにしても、二時間近くも車に乗って市内に出なければならないような不便な村に、日美香のような頭脳も明晰《めいせき》で容姿にも恵まれた若い女が何を好き好んであえて住み着こうというのだろう?
引き付ける何がここにあるというのか?
家伝書……?
あんな黴臭《かびくさ》いだけの古文書を読むことが、刺激に満ちた大都会の生活を捨てさせるほど楽しいものなのか。
それとも……。
この村のこの家にある何かが彼女の心をとらえて離さないとでもいうのか……?
美奈代は、ふいに言い難い不安に駆られ、つと立ち上がると、窓辺に寄り、カーテンをめくって外を見てみた。中庭を挟んで、夫の部屋の明かりが背の低い庭木の陰から僅《わず》かに見える。
聖二はまだ起きているようだった。
まさか、あの部屋にまだ日美香が……?
そう考えると、理由もなく胸の奥がざわついた。
夫の部屋を出たとたん、廊下でノートをたずさえた日美香とすれ違ったことを思い出した。あのあと、二人分のお茶の支度をして再び夫の部屋を訪れたとき、二人は卓を挟んで向かい合い、卓の上には所せましと古文書が広げられていた。
今夜も彼女はあの家伝書を読むために、夫の部屋を訪れたのだろう。
何巻にも及ぶという家伝書はふだんは蔵の奥深くに厳重に保管されているのだが、神職につく者がそれを読むときだけ、歴代の宮司が自分の部屋に持ち込むことが許されている。そして、その部屋からは、たとえ家の中であっても、決して外に出してはならないという掟《おきて》が古くからある。それを読む者は、皆、宮司の部屋を訪れ、そこでしか読むことが許されないのである。
だから、毎日のように、夕食後に日美香が聖二の部屋を訪れ、そこに二人きりで何時間も閉じこもっているのは、別に怪しむことでもなんでもないのだが……。
それでも、時には、午前一時二時の深夜に至るまで、夫と日美香が一つ部屋に閉じこもっているという事実が、なぜか美奈代をひどく苛立《いらだ》たせ、不安にさせた。
しかも……。
夫の言い付け通り、二人分の茶菓の用意をして、部屋に持って行ったとき、盆から急須や湯呑《ゆの》みを卓に移そうとすると、「あとはわたしがしますから」と言って、日美香は美奈代の手から盆を取り上げ、邪魔だと言わんばかりの目付きで美奈代を見た。
そして、養女《むすめ》というよりは、まるで年若い妻を思わせるような、どこか甲斐甲斐《かいがい》しい手つきで、聖二と自分の分のお茶をいれはじめた……。
それを横目で見ながら、すごすごと二人の前から引き下がってきた自分。
思い出すと、美奈代の胸に、今まで感じたこともない怒りがふつふつとこみあげてきた。わたしは下女ではない。奴婢《ぬひ》でもない。
この家の宮司の正妻であり、れっきとした女主人だ。この家に嫁いで二十年。美奈代自身、ややもすると忘れそうになっていたことを突如として思い出した。
家の外に出れば、宮司夫人として、村人からはそれなりの尊敬と扱いを受けてきたが、ひとたび家の中に入ってしまえば、夫や子供たちの世話をしたり家事労働に追われるだけの使用人のような存在になりさがっていた。
そのことに密《ひそ》かな不満をおぼえながらも、長い年月のうちに、そんな生活に自然に慣らされてしまっていた。
でも、わたしは下女ではない。法的に認められた立派な妻だ。
今、ふいにそんな誇りのようなものがぐいと鎌首をもたげるように美奈代の胸を突き上げた。
指に嵌められた黄金色の光をじっと見つめているうちに、まるで暗示にでもかかったようにそんな猛々しい気分になってきた。
夫から貰《もら》ったその指環が、指に食い込むような強さで、美奈代の心にも食い込んでいた。皇帝のトパーズと呼ばれる高価な石が、その燦然たる黄金の支配者の色で、美奈代に声なき声で囁《ささや》きかけていた。
おまえはあの男の妻だ。宮司夫人だ。それを忘れるな。そんなにおどおどすることはない。びくびくすることもない。ひれ伏すこともない。おまえが夫に奴婢のように扱われるのは、おまえの心が奴婢のようだからだ。もっと胸を張れ。堂々としていろ。この宝石を身につけるにふさわしいだけの誇りと自信を持て。おまえの夫も、それをおまえに密かに望んだからこそ、この石をおまえに与えたのだ。そして……。
もし、その妻の座を奪おうとする者が現れたときは、誰であろうとも、その座を許すな。けっして明け渡すな。命を賭《か》けて闘え。
たとえ、それがおまえより遥《はる》かに若く美しい女であったとしても……。