十一月二十五日。水曜日の夜。
午後七時を少し過ぎたところだった。
「喜屋武・照屋」と連名で表札の出たマンションのドアの前までくると、新庄武はややためらうようにインターホンを鳴らした。
すぐに若い女の声で返事があった。
インターホン越しに名前を名乗ると、「ちょっと待って」と幾分慌てた感じの声がした後で、しばらくして、ドアが開いた。
顔を出したのは照屋火呂だった。
芝浦の話では、火呂は他にワンルームを借りて一人暮らしをしているようだが、弟の事故以来、以前住んでいた叔母のマンションに戻ってきているということだった。
「あ。突然どうも……」
武はそう言ってから、
「あの、豪君の容体はどうですか。あれから連絡ないんで、どうなったのかと思って。病院に寄ってみたんだけれど、付き添いの人はもう帰ったと言われて。それで、ここの住所は芝浦先生から聞いてたんで……」
と、訪問の理由を早口に説明した。
「それが……まだあのままの状態が続いているの」
火呂はそう言った。
「え。まだ?」
豪が意識不明になってから二週間以上がたとうとしていたが、いまだに昏睡《こんすい》状態が続いているのだという。
とはいえ、容体そのものは、脈拍も血圧も比較的安定しており、病院にかつぎこまれた当時に比べると、それほど危険という状況ではないようだ。
口や鼻からチューブを出してベッドに横たわったままの弟の姿は、痛々しくはあったが、その顔は意外なほど穏やかで、まるで呑気《のんき》に眠っているように見える。
火呂はそう話した。
「お医者さんの話では、これは長期戦になるかもしれないって」
「長期戦……?」
「ええ。脳にダメージを受けた場合、ごく稀《まれ》にこうした昏睡状態が長く続くことがあるんですって。何カ月も時には何年も。豪の場合、即死でもおかしくないほど脳へのダメージがひどかったらしいから、二週間以上もこうして持ちこたえていることそのものが奇跡に近いって……」
火呂はそう言うと、
「ここで立ち話もなんだから、中に入って」
客人を誘《いざな》うようにドアを大きく開けた。
「あ、いや、実は、おふくろから預かってきたものがあって。それ渡したらすぐに帰るから」
武は、慌てて肩にかけたナップザックをおろそうとしたが、
「いいから入って。せっかく来てくれたんだからお茶くらい御馳走《ごちそう》するわ」
「……。じゃ、ちょっとだけ」
武はそう言うと、やや引けた物腰で、中に入ってきた。
「……叔母さんは?」
リビングに通されると、武はすぐに聞いた。
2LDKほどの広さだったが、火呂のほかには人のいる気配がなかった。
「まだ会社から戻ってないわ。いつも帰るのはもっと遅いから。コーヒーでいい?」
火呂はそう言って、リビングに続くダイニングルームの方に入って行った。
武はリビングのソファに腰をおろし、しばらく物珍しそうにあたりをきょろきょろ眺めていたが、思い出したように傍らに置いたナップザックを開け、中から四角い菓子折りのような箱を取り出した。
「これ、おふくろから……」
香ばしい香りと共に二つのコーヒーカップを盆に載せてリビングに戻ってきた火呂に、そう言って菓子折りを差し出した。
「お母様から……?」
火呂は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「ほら、前に言ったでしょ。あなたは命の恩人だって。で、あなたのこと、おふくろに話したら、ぜひ一度会ってお礼がしたいとか言い出しちゃって。ただ、今、うちのおふくろ、親父のことで超多忙なんだよね。それで、落ち着いたら一度ちゃんとお礼に来るから、とりあえず、これをって。手作りのアップルパイだと思うけど」
「そんなことしてくれなくていいのに。命の恩人なんて大袈裟《おおげさ》すぎる。別にわたしはあなたを助けようとして、あのとき、サッチンに電話したわけじゃないんだから」
火呂は困ったように言った。
「くれるってもんは黙って貰っておけば? おふくろのアップルパイは下手な店のより美味《うま》いから。それに、こんなかさ張るもん、また持ち帰るの荷物になってやだよ」
武はそう言って、押し付けるように菓子折りを火呂に渡した。
「そう? じゃ、貰っておく。どうもありがとう」
火呂はようやく笑顔になってそれを受け取ると、
「本当いうとね、アップルパイ好きなの、わたし」と言った。
「俺も好き」
武もつられたようにそう言って、
「……アップルパイが」とすぐに付け加えた。
「そういえば、あなたのお父さんって」
火呂が言った。
「今度の新内閣で、総理大臣……?」
「え? ああ、まあ。ついにというか早々というか」
武は仏頂面でぼそっと答えた。この話題にはうんざりしている。そんな表情だった。
「史上最年少の総理大臣の息子か。凄《すご》いじゃない。おめでとう」
「おめでとうって俺に言われてもね。俺が何かしたわけじゃないし。ま、親父が総理になろうが草履になろうが関係ないけど」
武は冷淡な口調で言った。
「関係ないことないでしょ? 確か、家族も一緒に官邸とかに住むんじゃなかった?」
「おふくろと兄貴はあっちに移るみたいだけど。それで、今バタバタ忙しくしてるんだ。でも、俺は行かない。今の家に一人で残るつもり」
「どうして?」
火呂は目を丸くした。
「どうしてって、官邸なんて、字面からして堅苦しそうで嫌だ。どうせ来年大学に入ったら、どこかに部屋でも借りて独立するつもりだったし。それが少し早まっただけのことさ。お手伝いが一人残るみたいだから不便はないし。一家そろって官邸でもどこでもとっとと行きやがれって。ついでに口うるさい親戚《しんせき》のジジババどもも引き連れて行ってくれたらせいせいすらぁ」
武はさばさばした口調で言い放った。
「……なんだか変な感じ」
くすっと笑って火呂が言った。
「なに、変な感じって?」
「あなたと話してると、弟と話してるような気分になってくる……」
「豪と?」
「うん。どこか似てるのよ、あなたたち。外見とかは全然違うんだけど。ほっぺたつねりたくなるような憎まれ口をすぐにたたくとことか」
「……」
「もし、豪とあなたが出会ったら、五分で口|喧嘩《げんか》がはじまって、十分で殴り合いになって、でも結局、最後は仲直りして、無二の親友になる。そんな感じね」
「レトロな青春ドラマみたいに? ラストは夕日に向かって肩組んで調子っぱずれの歌うたうとか」
「そう」
「……豪ってどんな奴?」
武は興味をもったような顔で聞いた。
「どんな奴って言われても一口でこんな奴とは言えないわよ」
「ルックスはどう? 俺と比べて」
「うーん。客観的に見て、あなたの方が若干良いかもね」
「若干かよ」
「弟は典型的な縄文系ゴリラ顔だから。沖縄に多いのよ、あの手の顔」
「俺はどっちかいうと、弥生《やよい》系スッキリ美男顔だからな。顔は勝ったな」
武は得意そうに言った。
「身長は?」
「自称百七十センチ。でも、多分、七十はないと思う。あとせめて五センチ欲しいって、いつも牛乳がぶ飲みしてたから」
「俺は、自称百八十。多分この先もっと伸びる。背も余裕で勝ったな。勉強は? できた方?」
「それもビリから数えた方が早い」
「……その点についてはコメントは差し控えよう。まあ、ドッコイドッコイてとこか。しかし、あなたの弟って、聞いてると全然取り柄がないみたいなんだが」
「そんなに弟のことが気になるなら、部屋、見てみる?」
火呂はふと思いついたように言った。