「ここが弟の部屋」
火呂は玄関を入ってすぐ右手にある洋室のドアを開けると、部屋の照明を点《つ》けた。
「うわ……。きったねー」
その狭い洋室を火呂の肩越しに覗《のぞ》き込むように一目見るなり、武は大声で言って顔をしかめた。
ベッドと勉強机と衣装ケースしかないその部屋は、まさに足の踏み場もないほど散らかっていた。
毛布は丸まり、寝乱れたままのベッドの上には、ジーンズやらデニムのシャツやらが脱ぎっぱなしで何着も放り出してあり、机の上には、分厚い埃《ほこり》を被ったままの教科書と漫画本が一緒くたになって積み重ねてある。
部屋の隅の安物の衣装ケースのファスナーは下までだらしなく下げられたままで、グレイの絨毯《じゆうたん》を敷いた床も、絨毯の色が見えないほどに雑誌やら衣類やらゲームソフトやらが投げ出されていた。
窓が一つしかない部屋には、何やら酸っぱいような異臭すら籠《こ》もっている。
「俺の部屋といい勝負だな。ここよりか少し広いが……。乱雑具合は甲乙つけがたしってとこだ」
武は、その見事なくらいに散らかった部屋をほれぼれした眼差《まなざ》しで見回した。
ホルスタインのような胸をしたアイドルが白い歯を見せてにっこり笑っている特大ポスターを貼った壁には、だいぶ使い込まれて黒ずんだボクシングのグローブが吊《つ》るされていた。
「事故以来一度も掃除してないのよ。あの朝、豪が出て行ったときのまま……」
火呂はそう言いながら、くんくんと鼻をうごめかすと眉《まゆ》をしかめ、急いで窓を開けに行った。
「なまじ掃除なんかしたら、豪が帰って来なくなるような気がするって叔母さんが言ってね……」
深呼吸するように窓の外を見ながら言った。武は何を思ったのか、ベッドのそばにかがみこみ、片腕をぐいと延ばしてベッドの下を探っていたが、何やら手ごたえがあったような顔になると、奥の方から埃まみれの数冊の大型本やらビデオソフトやらを掻《か》き出してきた。
そして、そのタイトルを薄笑いを浮かべながらいちいち見ていたが、火呂がこちらを振り向く前に、素早くそれらをまとめてベッドの下に押し戻した。
「掃除なんかしない方がいいよ。あまり奇麗に片付けたら、帰ってきたとき本人がかなり慌てることになると思うから」
埃で真っ黒に汚れた指先をそのへんに投げ出してあった男もののシャツで拭《ぬぐ》いながら言った。
「時々換気だけはした方がいいと思うけどね……」
そう呟《つぶや》いた武の目が、部屋の隅に立て掛けてあったギターに止まった。興味を引かれたように、それに近づくと、何げなく手に取った。
ベッドの上に腰掛け、ギターを抱えると、それを手遊びのようにかき鳴らしはじめた。
「……音狂ってやがる」
しばらくかき鳴らしていたが、舌打ちしてそう呟くと、チューニングをはじめた。
チューニングを終え、また音を確かめるように二度三度かき鳴らしていたが、一瞬手を止めた。そして、何かを思い出すような目で一点を見つめていたが、ふいに或《あ》る曲を流れるように奏ではじめた。
『禁じられた遊び』だった。
「……巧《うま》いじゃない」
窓辺から振り向いて、火呂が感心したように言った。
「中学のとき、一時はまったことがあるんだ。高校に入ってボクシングはじめてからはそっちに夢中になって遠ざかっちゃったんだけど。あれ以来たまにしか弾いてなかったのに、おぼえてるもんだな。指が勝手に動く」
自分で自分の腕前に感心したように言いながら、流れるような指さばきで弾き続けた。
「弟もその曲、馬鹿の一つ覚えのようによく弾いてたけど、いっつも同じとこで間違ってた」
火呂は懐かしそうに言った。
「豪もギター好きだった?」
武は、『禁じられた遊び』を楽々と弾きこなすと、すぐに別の曲をつま弾きはじめた。今度は、『アルハンブラの思い出』だった。
「うん。下手の横好きというか。将来の夢の一つはプロボクサーで、もう一つはミュージシャンですって」
「あんな初歩的な曲をいつも間違えてるようじゃプロなんて夢のまた夢だな。ていうかさ、音狂ったままのギターを平気で使ってる段階で、俺に言わせりゃ論外だね」
武はあざ笑うように言った。
「同感。豪が弾いてるの聴いてると拷問受けてるみたいな気がしたけれど、あなたのはそんなに苦にならないわ」
「褒めてるつもりかよ?」
「褒めてるつもりよ。だって、わたし、こう見えてもかなり耳良いのよ。絶対音感に近いものがあるって、昔、音楽の先生に言われたことあるし」
「へえ?」
「あなただったら、本格的に取り組んだら物になるかも。ギタリストになるのも夢じゃないかもよ」
火呂は真顔で言った。
「ギターか。またやってみようかな……」
武もいつになく真剣な顔つきになって呟いた。
「そういえば、豪の夢は、わたしの歌の伴奏をギターですることだって、いつか言っていたことがある」
火呂が思い出したように言った。
「ふーん」
「ほら、カーペンターズっているでしょ。妹が歌って、兄が作曲と伴奏を受け持って、きょうだいで音楽活動する。ああいうのが弟の究極の夢だったみたい。でも、豪の腕前じゃ、それこそ見果てぬ夢だったんだけどね。あいつが後ろで音はずすたびに、わたしがずっこけてたら、コントにしかならないじゃない」
そう言って笑うと、火呂は少し黙り、やがて、思い切ったように言った。
「実をいうと、わたしね、シンガーになるかもしれない」
「は?」
武は手を止めて、ポカンとした顔で火呂を見た。
「シンガー。歌手よ」
「シンガーが歌手って事くらい、英語が苦手な俺でも知ってるよ。アイドル歌手ってこと? まあ、ルックス的にはなんとかクリアって感じだけど、年齢的にチトきついんじゃない? いまどきのアイドルって、中学生くらいでデビューするのが常識でしょ。あんた、もう二十歳だろ。アイドルの世界じゃ姥桜《うばざくら》もいいとこだぜ?」
「失礼ね。アイドルじゃなくて、歌手だって言ってるでしょ。歌だけで勝負する本格的な歌手よ。年なんて関係ないわ。宝生輝比古って知ってる?」
「あの音楽プロデューサーの?」
「あの人のプロデュースで、ソロシンガーとしてね。今、その話を音楽事務所の人もまじえて話しあっている最中」
「宝生と組むの? マジで?」
武は驚いたように聞いた。
「嘘でも妄想でもないわよ。本当の話。前から何度かアプローチ受けてたのよ。でも、わたしは歌でお金|儲《もう》けなんかする気は全然なかったから、ずっと断ってきたんだけど……」
火呂はそう言って、以前、豪に頼まれてアマチュアバンドのコンテストにボーカルとして飛び入りで出たときの話をした。
「……それ以来、宝生さんに見込まれてしまったみたいで」
「凄いじゃん。俺の価値観からすると、親父が総理大臣なんかになるより凄いことだよ、それは」
武は心底感嘆したように言った。
「大体、どの世界でもカリスマとか言われてる奴にろくなのいないけど、宝生のことは、俺、ちょっと認めてたんだよな。だけど、奴も、最近はアイドル製造機みたいなのになりさがって、こいつもこれでオシマイかなとか思ってたんだけど」
「ここまで見込んでくれたならやってみようかなって気になったのよ。それに、豪が……」
そう言いかけて、火呂は少し言葉を詰まらせた。
「わたしが歌手になることを誰よりも望んでいたから。事故に遇った日も、弟はわたしのマンションに来てたのよ。学校の帰り、その話をしに。あの夜、雨がだんだんひどくなってきて、弟はあまり帰りたそうではなかった。泊めてあげてもよかったんだけど、またあの話をぶり返されるのがうざくて、傘だけ貸して追い出すように帰してしまった」
「……」
「もし、あのとき、弟を帰さなかったら、部屋に泊めていたら。あんな事故に遇わなかったかもしれない。そう考えるとね……。それに、叔母さんから聞いたんだけど、事故に遇う直前まで二人で歩きながらその話してたんだって。そのとき、叔母さんもわたしを説得する側に回るって言ったら、豪は凄《すご》く喜んでいたんだって。それ聞いたら、ようやく決心がついた。もし、弟が意識を取り戻したとき、それがいつになるか分からないけど、わたしが歌手になったって知ったら、喜ぶんじゃないかって思って……」
火呂はそう言ってから、少し恥ずかしそうに付け加えた。
「それに、現実問題としてお金が必要なのよ。もしこの先、弟がずっとあのままだとしたら、入院費用とかかかるわけだし。たとえ意識が戻っても、身体に後遺症が残る可能性もあるしね。下半身不随で一生車椅子ってことも考えられるし。そのためにも、少しでもお金を貯めておかなければ。そう思って……。心臓の悪かった弟のために、あそこまでやったサッチンの気持ちが今になって分かったような気がする。被害者の一人だったあなたの前でこんな事言って悪いけど。幼友達だったからって、彼女のやったことを美化したりかばうつもりはないのよ。でも……」
「別にかまわないよ。俺の方も、あんな目に遇ったのに、なぜかあの女のこと恨んでないんだよな。逆に感謝してたりして。あの事件に遇ったことで、あの女に命をもらったんじゃないかって気がしてるし」
「命をもらった?」
「うん。これ見て」
武はそう言って、右手を開いて見せた。手のひらには、だいぶ薄くはなっているが刃物傷が縦についていた。
「この傷、あの女がつけたんだよ。寿命をくれてやるとかいってさ、ナイフで。荒っぽいやり方で生命線を伸ばしてくれたんだ。俺の右手の生命線、途中でぶったぎれたようになっていたから。もしあの事件に遭遇しなかったら、俺の寿命は二十歳くらいで終わっていたかもしれない。でも、あんな事件に遇って死にかけたことで、逆に寿命は伸びた。そんな気がするんだ。このままいくと、入れ歯ふがふがいわせながら百までヨロヨロ生き続けて、あのジジイまだくたばらねえのかって言われるほど長生きしそうだ」
「憎まれっ子世になんとかとも言うしね」
「あんたもわりと言う方だね」
「自慢じゃないけど、弟とはいつも口バトルだったもの。そのうち、あなたともそうなりそうな悪い予感……。さっきも『姥桜』って言ったあたりで弟だったら絶対手が出てたと思うね。あなたは弟じゃないから、一応遠慮したけど」
「いっそ弟の代役してやろうか」
武が何か思いついたような顔で突然言った。
「代役?」
「そう。豪の代わりというか。叔父さんの代役は絶対御免だと思ったけど、会ったこともないあんたの弟役ならいいかなって」
「叔父さんの代役って?」
「いや、何でもない。こっちのこと」
武は慌ててそう言い、
「豪が意識取り戻すまで、俺のこと、豪だと思えばいいよ。他人だからって遠慮しなくてもいい。しゃべっててむかついたら、弟だと思って殴れば? 俺さ、最近ハタと気が付いたんだけど、ちょっとMの気があるみたいなんだよな」
「……」
「女に殴られるの嫌いじゃないみたい。といっても、相手は美人に限るけど。微妙に快感があるような。小さい頃からおふくろにはよくひっぱたかれたし、学校でもなぜか女の先生ばかりによく叩《たた》かれたり、頭から水ぶっかけられたり。あげくに、あんたの友達には殺されかかるし、この前も、ある女に猟銃で撃たれそうになるわで」
「猟銃で撃たれそうになったの?」
火呂は驚いたように聞き返した。
「人間生きてると、いろいろなことにでくわすわけで」
「普通、でくわさないわよ」
「俺はでくわすの。一度あることは二度ある。二度あることは三度あるっていうから、もう一度くらい……。なんかこう、宿命的に、サド女のサド心を刺激する何かがあるのかな、俺の中には。生まれついての生き贄《にえ》というかね……」