十一月二十六日、木曜日の深夜。
明かりの消えた神家の黒々とした屋根の上に、禍々《まがまが》しい赤い月がかかっていた。
それはまるで闇に紛れて姿の見えない巨大な獣が、その血まみれの尖《とが》った爪を家屋にかけようとしている。
そんな風にも見えた。
唯一明かりが灯っていたのは当主の部屋だけだった。
どこかの柱時計がボーンと一つ鳴るのが微《かす》かに聞こえてきた。
聖二は時計を見た。
午前一時になろうとしている。
卓を挟んで座っていた日美香が、口に手にあて、小さくあくびをした。
「……このへんにしておこうか」
これが潮時とばかりにそう言うと、聖二は卓の上に広げてあった古文書を片付けはじめた。
「はい」
日美香は素直に頷《うなず》き、卓の前に広げていたノートを閉じると、それに筆記具を重ね、両手で胸に抱えるようにして立ち上がりかけた。そのときだった。
カタカタカタカタという奇妙な音がした。見ると、棚の上の置物が小刻みに揺れている。棚の置物だけではない。天井から吊《つ》るされた照明器具の白い笠《かさ》も、連動するように、カタカタと小刻みに揺れている。
部屋全体、いや、家全体が微かに震えるように揺れている。
日美香はノートを胸に抱いたまま、一瞬、身構えるように立ち尽くした。
聖二も、立ち上がりかけてやめたような中腰になって、じっとあたりを伺うような姿勢をしていた。
何か来る。
そう感じた瞬間だった。
ぐらっと家ごと傾くような衝撃があった。
棚に載せた置物や本がどさどさと音をたてて床に落ちた。
廊下の方から、何かガラス物でも落ちたようなガシャーンという大きな音がした。
「地震だ」
聖二が言った。
「怖い」
日美香は手にしたノートを放り出すと、無我夢中で、目の前にいた男にしがみついた。
聖二の方も胸に飛び込んできた娘を全身でかばうように抱き締めた。
もっと大きな揺れが来るかもしれない。ここは下手に動かない方がいい。
一瞬そう判断して、じっとしていた。
しばらく、二人は互いをかばい合うように抱き合っていたが、その後、最初よりは衝撃度の低い揺れが二度ほどあっただけで、さらに大きな衝撃が来る気配はなかった。
緊張していた聖二の腕から少し力が抜けた。
「……もうおさまったようだ」
そう言って、自分の胸に顔を埋めるようにして抱きついている娘の背中を安心させるように軽く叩いた。
もう離れろという合図のつもりだったのだが、日美香はひしっと抱きついたままだった。
「たぶんもう揺れはない。怖がることはないよ。ちょっと手を離してくれ。外を見て来なければ」
聖二は諭すように言って、ぴったりと寄り添っている娘の両肩をつかんで身体を引き剥《は》がそうとした。
こんな場合は、すぐに家中を見回って、被害の具合や家族の安否を確認するのは家長としての務めでもある。
廊下の方からは、寝ていた家人が驚いて起き出してきたような声や物音が聞こえてきた。その中には脅《おび》えたように泣く子供の声も交じっている。
一刻も早く外に出ていって、脅えている家人を安心させなければ。
そんな義務感に駆られて、部屋から出ようとしたのだが、日美香は嫌々をするようにかぶりを振って、離れようとはしない。それどころか、いよいよきつく抱きついてくる。
「離しなさい」
ついに業を煮やして、娘の身体を半ば突き飛ばすようにして引き離した。
「駄目だ。今、外に出てはいけない!」
突き飛ばされた娘が叫んだ。
そして、またひしっと抱きついてくる。
その仕草は、地震に怖がって抱きつくというより、男が外に出るのを身体ごと防ごうとしているようにも見えた。
長い黒髪が真っ青な顔に振りかかり、目尻《めじり》が吊り上がり、その目はらんらんと異様な輝きを放っている。
聖二は不審なものを感じた。
いつもの日美香とはどこか違う。
深夜の地震に驚き脅えているだけの表情には見えなかった。
「そうはいかない。家の様子を見て来ないと。ガラスの割れるような音がした。誰か怪我をしたかもしれない」
聖二はそういって、またしがみついてきた娘の身体を引き離そうとすると、
「外はイワレヒコの軍隊で包囲されている。今、外に出ては行けない。外に出たら殺されるぞ」
日美香はそんな奇妙なことを口走った。
イワレヒコの軍隊?
何を言っているんだ。
それにこの男のような乱暴な口調……。
いつもの日美香ではない。
聖二はぼうぜんとしたように日美香の顔を見つめた。
「もうすぐイワレヒコの軍が中になだれこんでくる。わたしがなんとかくい止めるから、あなたは裏から逃げろ」
「日美香……?」
「わたしはヒミカではない」
「誰だ……?」
「ミカヤだ。わたしはミカヤだ」
ミカヤ……?
聖二の中で遠い記憶が蠢《うごめ》いた。ミカヤ。どこかで聞いたことがあるような名前だ。遠い遠い昔……遥《はる》か太古の……。そんな名前の女を知っていたような……。ミカヤ……ミカヤ……。だめだ。思い出せない……。
「わたしだ。ミカヤだ。あなたの後を追って、わたしもここまで来たんだ。わたしを思い出すんだ。ミカヤを思い出せ!」
日美香はそう言うと、両手で目の前の男の胸倉をつかむようにして烈しく揺さぶった。
「……あなた? 大丈夫ですか」
外から美奈代の声がして、襖《ふすま》がガラリと開かれたとき、聖二は日美香に抱きつかれたまま、放心したように立ち尽くしていた。