戸口で凍りついたような表情で立っている寝間着姿の妻を見るや、聖二はようやく我にかえった。
「……あなた」
美奈代の目が鋭く責めるように自分たちを見ているのに気づくと、慌てて、日美香の身体から離れた。
日美香の方も今度は抵抗せずにすぐに離れた。
「ひ、被害の具合はどうだ? 誰か怪我をした者はいないか。子供の泣き声がしたが」
聖二は幾分うろたえながらも妻に聞いた。
「いえ……誰も……」
美奈代は刺すような視線を夫と養女の方に交互に投げかけながら答えた。
聖二はすぐに部屋の外に出た。
廊下の向こうには、弟やその家族たちが固まっていた。皆、寝入りばなを起こされたらしく、薄ら寒そうな寝間着姿のままだった。
郁馬の姿もあった。
「何か被害はあったか。怪我をした者はいないか」
郁馬に向かってもう一度そう聞くと、郁馬は首を振り、
「いえ。僕の見た限りでは大したことはありません。怪我をした者もいないようです」
「ガラスの割れるような音がしたが?」
そう聞くと、
「ああ。あれは客室の棚の上のガラス瓶が落ちて壊れただけです」
郁馬はこともなげに答えた。
子供の泣き声も、単に突然の衝撃に脅えただけだと分かった。誰かが宥《なだ》めたらしく、その泣き声も今では止んでいた。
「どうやら震度は4くらいのようですね、このへんは」
すぐ下の弟にあたる雅彦が言った。手に小型の携帯用ラジオをもっていた。そこからの情報らしい。
「そんなものか? もっと揺れたように感じたが」
聖二は言うと、
「棚とかは倒れてませんから、そんなものですよ。寝入りばなだったんで衝撃が強く感じられただけでしょう。この様子だと、揺り返しもないと思いますけどね」
雅彦は冷静な口調で答えた。
「そうか……」
聖二は弟の報告に幾分ほっとしながら、それでも、念のため、家の中を隈無《くまな》く見て回った。弟の言う通りだった。
家屋の被害といっても、棚に載せておいたものが落ちて壊れた程度で、これといって大した被害はなかった。怪我をした者もいない。台所も見回って、火の不始末等がないことをすべて確認した。廊下に出ていた家人もそれぞれ部屋に引き取ったようで、家の中は、すぐに地震が来る前の静寂さを取り戻していた。
すべてを点検し終えて、聖二が部屋に戻ってきたときには、時刻は午前二時をとうに回っていた。
部屋にはまだ日美香が残っていた。不安そうな表情はしていたが、先程|垣間見《かいまみ》せた、あの異様な形相《ぎようそう》は既に消えていた。
「もう大丈夫だよ。大した事はなかった。あなたも早く部屋に戻って休みなさい」
そう声をかけても、日美香はすぐにそこを動こうとはしなかった。
「……今夜はここで休んではいけませんか」
少しためらった後、おずおずとした口調でそう言った。
「ここで?」
「怖いんです、一人で寝るのが。また地震が来たらと思うと……。だから、ここに客間のお布団を運んできて、お養父《とう》さんのそばで眠りたいんです」
身を竦《すく》めて答える。
「布団ならもう一組あるから、運んでくる必要はないが」
聖二はそう答えた後で、
「ここで一緒というのはちょっとね。あなたが小さな子供ならともかく……」
困惑したような顔で付け加えた。
揺り返しが絶対来ないとは言い切れないが、これまでの経験と勘からすれば、今回の地震はこの程度のものだろう。そんな気がした。
それに、いくら養女《むすめ》とはいえ、成人に達した若い女と同じ部屋で休むというのは、家人の手前、やはりためらうものがある。実の娘ならまだしも……。
とりわけ美奈代の目が少し気になった。襖を開けて、抱き合っている自分たちの姿を見たときの妻の凍りついたような眼差しがまだ脳裏に残っていた。
美奈代が妙な勘違いをしなければいいのだが……。
そう危惧《きぐ》する気持ちもあった。
いや、家人への思惑よりも……。
実は、自分自身の心が怖い。
地震の衝撃からかばうために夢中で取った行動ではあったが、日美香の身体を抱き締めたとき、その撓《しな》うような柔らさや、鼻腔《びこう》をくすぐる黒髪の甘酸っぱい匂いに、一瞬女を感じてしまった。
それまでは日美香に「女」を意識したことはなかった。実妹の忘れ形見として出会ったときから養子縁組をした後も、姪《めい》として養女としては誰よりも愛してきたが……。
そして、母の転生者だと分かってからは、母の面影を持つ女としても。
しかし、先程感じたのは、そうした家族的な感情ではなかった。
姪でも養女でも、むろん母でもなく、ハッキリと異性としての女を感じた。
欲望を感じた。
そんな自分の心が怖い。
それに……。
あのとき、日美香が口走った妙な言葉。
ミカヤという名前。
あれも気になる……。
思い出せそうで思い出せない名前。
遠い遠い記憶の中で蠢《うごめ》く女の名前。
一体誰なんだ……。
まさか。
あれは母以前の転生者……?
そう思いかけたとき、
「小学生の時……」
日美香がふいに言った。
「八歳頃のことです。やっぱり真夜中にこんな地震が来たことがあったんです。そのとき、わたしは一人だった。母はまだお店の方にいて。わたしは家に一人で寝てたんです。すごく怖かった。家中ががたがた揺れて、棚のものが次々と落ちてきて、そのうち、棚ごと倒れてくるんじゃないかと思って。悲鳴をあげそうになったけど、誰も助けてくれる人はいなくて、おさまった後も一人で布団の中で震えていた……」
「……」
「翌日、学校へ行ったら、友達がその話をしていたんです。みんな怖かったって……。でも、みんな、お父さんが守ってくれたって言ってた。中には、地震がおさまった後も怖くて、お父さんの布団に入って一緒に寝たって子もいました。それを聞いたとき、すごく羨《うらや》ましかった。お父さんのいる友達が。こんなときに守ってくれる強いお父さんがいる友達が。どうして、わたしには、そんなお父さんがいないんだろうってはじめて思った……」
日美香がふいにはじめた回想を、聖二は喉元《のどもと》に刃を突き付けられたような思いで聞いていた。
この娘に生まれながらにして父親を与えてやれなかったのは自分のせいだ。子供の頃からこんな寂しい思いや怖い思いをさせ続けてきたのは、ほかならぬ自分だ……。
そう心の中で自分を責めながら。
「同じ部屋に一緒というのが駄目なら、わたしはこちらで寝ます。それでもいけませんか……?」
日美香は八歳に戻った子供のような目をして哀願するように聞いた。
寝室ではなく、今いる書斎の方に寝るというのだ。
それならば……。
聖二の気持ちが動いた。
ここまで言われて尚《なお》もはねつけるのは、かえって不自然ではないか。
そうも思えてくる。
真夜中の地震の衝撃で子供の頃の恐怖を思い出してしまったのだろう。それで、当時欠落していた父親の感触を今求めようとしているのかもしれない。一種の追体験とでもいうか。
日美香が求めているのは、父親の温《ぬく》もりだ。子供の頃からずっと心の奥で求め続けてきた……。
養父でありながら、家人の目などを気にして、それさえも与えてやれないのか。なんのためにこの娘を養女にしたんだ。
聖二は心の中で自分を詰《なじ》った。
それに……。
あまり頑《かたく》なに拒むと、逆に、自分の中に芽生えた養父にあるまじき欲望を見透かされてしまう恐れもある……。
「今夜だけなら」
そんな千々に乱れた思いが、ためらった末に、聖二についそう口走らせていた。
それを聞くと、日美香は目を輝かせ、嬉《うれ》しそうに言った。
「すぐにパジャマに着替えてきます」