地震の騒動がおさまって、部屋に戻ってきた美奈代は、まだ温もりの残っていた布団にもぐりこんだものの、中々、寝付けなかった。あれから三十分以上も輾転反側《てんてんはんそく》を繰り返している。
余震が来るのではという恐怖よりも、夫の部屋で見た光景が強い刺激となって、美奈代の眠りを妨げていた。
あれは、地震のせいだ。突然の衝撃に、夫がこわがる日美香を守ろうとして抱き締めていただけだ。
そう思い込もうとした。
別におかしな行動ではない。父が咄嗟《とつさ》に娘を守ろうとした。それだけのことだ。
いくら頭の中でそう自分に言い聞かせようとしても、美奈代の中に、「否」と叫ぶもう一人の自分がいた。
それならば、なぜ、あのとき、夫はあんなにうろたえたのだろう。娘を災害から守るために取った行動なら、誰に見られようと慌てることはないはずだ。でも、夫はそうではなかった。わたしが襖《ふすま》をいきなり開けたとき、明らかに動揺していた。そして、突き飛ばすようにしてあの娘から離れた。あの夫があんな風にあからさまに動揺するのをはじめて見た……。
あんなにうろたえたのは、何かやましいことがあるからではないのか……。
美奈代は眠るのをあきらめ、布団から起き上がった。何か言いようのない胸騒ぎをおぼえていた。少し冷えたのか尿意も催している。枕元のスタンドを点《つ》けると、目覚ましを見た。時刻は午前二時半になろうとしていた。
スタンドの明かりを受けて、美奈代の手にあった黄色い石がギラリと光った。指には抜けなくなったあのトパーズの指環《ゆびわ》が嵌《は》まったままだった。
寝間着の上に毛糸の上着を羽織ると、トイレに行くために部屋を出た。
忍び足で冷えた暗い廊下を歩き、トイレに行って用を足し、部屋に戻りかけたときだった。
廊下をひたひたと歩く別の足音を聞いたような気がした。
家人の誰かが、自分のようにトイレに起きたのだろうかと思いつつ、ふと見ると、彼方の廊下をすっと横切った人影があった。
日美香だった。
パジャマ姿で上にカーディガンを袖《そで》を通さずにふわりと羽織っている。
トイレに起きたようではないようだ。方角が違う。
こんな時間にパジャマ姿でどこに行くのだろうと美奈代は不審に思った。
それで、それとなく跡をつけて行くと、驚いたことに、彼女の姿はそのまま夫の部屋に消えた。
え……?
一瞬、全身の毛が逆立つ思いがした。
地震の直後、夫の部屋の襖を開けて見たときの光景よりも衝撃的なものを見てしまったような気がした。
なぜ?
こんな真夜中……。
しかも、パジャマ姿で……。
まさかあんな格好で、今頃、家伝書の勉強をしに行ったのではあるまい。
美奈代の頭は一瞬錯乱した。
慌てて自分の部屋に戻ると、窓辺のカーテンを僅《わず》かに開けて、外を見た。
真っ暗闇の中に、屋根にかかる赤い月と、その下の窓明かりが見えた。
夫の部屋の明かりがまだ点いていた。
ところが……。
その煌々《こうこう》と灯《とも》っていた明かりが次の瞬間、ふっと吹き消すように消えた。
家は完全に闇に呑《の》み込まれた。
猛悪な獣の赤い爪のような月だけが見える。
明かりが消えた?
日美香をあの部屋に呑み込んだまま……?
窓ガラスに両手の爪をたてて、外を食い入るように見ていた美奈代の頭の中も、一瞬すべての希望が消えたように真っ暗になった。