日美香がパジャマに着替えて戻ってきたとき、聖二も既に着替えを済ませ、最初は書斎の方に運びかけたもう一組の布団を、少し迷った末に、寝室の自分の布団の隣に並べて敷き終えたところだった。
寝室には二組の布団を敷く余裕が十分あるというのに、書斎の方にわざわざ離して敷くというのもかえって不自然だ。
そう思い直したからだった。
それに、この部屋に一緒に寝ると決めてから、日美香を二十歳の娘ではなく、八歳の子供だと思うことにした。
日美香自身、夜中の地震への恐怖から子供返りしているように見えたからだ。相手を八歳の子供だと思い、そのように接すれば、自分の心の中に芽生えかけた不埒《ふらち》な邪心を抑えることもできるだろう。
「お休みなさい」
そう言って隣に敷かれた布団に、嬉《うれ》しそうにもぐりこんだときの日美香の様子は、まさに小学生のような無邪気さだった。
新しい布団に慣れないのか何度か寝返りをうっていたが、聖二が部屋の照明をすべて消し、自分の布団に入ると、日美香のもぞもぞとした動きもぴたりと止まった。
部屋はしばし闇と静寂に包まれた。
まさか、このとき、妻の美奈代が、中庭の向こうから、窓越しに鬼女のような形相でこちらをじっと窺《うかが》っていたことなど知るよしもなかった。
明かりを消したからといって、すぐに寝付けるはずもなかったが、目を閉じ、隣の布団に背中を向けるようにして横たわっていた。
十分ほどがたった。
闇の中で何かの気配がした。
聖二はそれを背中で感じとった。
隣の布団から日美香がむっくりと起き上がったのだ。
首を巡らして見たわけではないが、起き上がったことはきぬ擦れの音や気配でなんとなく分かった。
トイレにでもたつのかと思っていた。
ところが……。
起き上がった人影は、寝室の戸口には向かわず、枕元をそそと横切ったかと思うと、いきなり聖二の布団の中に入ってきたのである。
「寒い……」
日美香の猫のように柔らかな身体が背中にぴたりとへばりつき、耳元でそう囁《ささや》かれたとき、聖二は心臓が止まりそうになるほど驚いた。
寒い……?
そんなはずはない。
直前まで書斎の方のストーブをつけていた。その余熱でこちらの部屋もそれなりに暖まっている。
聖二はふいに三十年以上も昔のことを思い出した。まだ中学生だった。東京で兄の貴明と同じアパートで暮らしていたときのことだった。ある冬の夜、隣に寝ていた兄がむっくりと起き出し、「寒い」と言って、何を思ったのか弟の布団にもぐりこんできたときのことを……。
あのときの驚愕《きようがく》、動揺、困惑、そして微《かす》かな倒錯した喜び……。
あのときのように内心では動揺しながらも、どう対処していいのかすぐには思いつかず、そのまま寝た振りをしていた。
日美香の魂胆が読めなかった。
本当に寒いと感じて、子供がやるように無邪気に親の布団にもぐりこんできただけなのか。それならば、無下に出て行けとも言えない。
それとも、無邪気さはうわべだけのもので……。
そんな疑惑もわいた。
どちらかは分からないが、とにかく、ここはもう眠ってしまったような振りをして、背中を向けたままやり過ごそうと思った。
八歳の子供が布団にもぐりこんできただけだ。そう思い込んで。
しかし……。
いくらそう思い込もうとしても、背中にぴたりと押し付けられた双のふくらみの柔らかな感触といい、闇の中で一層匂いたつような黒髪の甘やかな匂いといい、耳朶《みみたぶ》にふきかかる熱い吐息のような息遣いといい、どう考えても、それは八歳の子供のものではない。
若い女以外の何者でもなかった。
眠ったふりをしていても、思わず身体が反応してしまいそうで、困ったなと思っていると、
「……こちらを向いて。あなた……」
耳元で囁きかけるような女の声がした。
一瞬、聖二の頭が真っ白になった。
あなた?
養父である男に呼びかける声ではない。
それはまるで新妻が夫に甘く囁きかけるような声だった。
「……わたしを抱いて」
背後の女ははっきりと口に出してそう言った。
それは子供が父親に抱擁をねだる声ではなかった。
「……日美香。やめなさい。自分の布団に戻るんだ」
聖二はついに寝たふりをやめて、背中を向けたまま突き放すように言った。
「わたしはヒミカではない。ミカヤだ」
しかし、背中越しに聞こえてきたのは、怒りを含んだそんな声だった。
「ミカヤ……?」
「ミカヤだ。わたしはミカヤだ」
背後の声が切なそうに訴え続けた。
「あなたの妻だ」