「分かりました。武にはそのように伝えます」
釈然としないまま、それでも幾分ほっとしながら美里は言った。
初めて会ったときから義弟の聖二が苦手だったように、この娘がどうも苦手だった。こうして面と向かっていても、何か落ち着かない気分にさせられる。
できれば、息子の嫁として付き合いたい相手ではない。それが美里の本音だった。
「武君はむこうで元気にやっているようですか? 郁馬さんから時々噂は聞いているのですが」
日美香が表情を和らげて聞いた。
「ええ。元気すぎるくらいで。去年の暮れあたりに何を思ったのか、急に古いギターを引っ張り出してきて、勉強の合間に熱心に弄《いじく》っていたかと思ったら、今年になって、突然ギタリストになるなんて言い出して。ようやく第一志望の大学に合格してくれてやれやれと思っていた矢先だったのに。今にはじまったことではないけれど、あの子の気まぐれには、いつも振り回されっぱなしで」
美里はそう言って苦笑したあと、思い出したように、
「そういえば、あなたも大学の方は?」
と聞いた。
「退学しました」
日美香は当然のように答えた。
「ということは、出産されたあとは復学する意志はないということですか。このまま、ここで?」
「はい。子育てに専念しようと思っています」
「あの、そのことなんですが……」
美里は心もち前のめりになって切り出した。
「考え直しては貰《もら》えませんか」
「考え直す……?」
「出産して落ち着いたら、もう一度上京して、復学して戴《いただ》きたいのです。赤ちゃんは新しい宮司さん夫妻の子として籍に入れられるのでしょう? それならば、そのまま子育てもそちらにおまかせして、あなたは自由になられては?」
「……」
「いえ、これはわたしの考えでなくて、主人の考えというかお願いなんですが」
「新庄さんの?」
日美香は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて聞き返した。
「ええ。主人が申しますのには、あなたがその若さでこんな山奥に引きこもってしまうのは勿体《もつたい》ないというのです。それで、もし、あなたが政治の世界に多少とも興味がおありでしたら、大学にもう一度入り直して政治学の勉強を一からしてもらいたいと。そして、行く行くは、信貴のように秘書を経て政界に入り、主人のブレーンの一人になって欲しいと……」
「わたしに女性大臣の道でもめざせと?」
日美香はやや皮肉っぽい口調で聞いた。
「最終的には……。女性もどしどし社会に進出して行く時代ですから。しかも、あなたにはそれだけの能力が十分備わっていらっしゃる。それをみすみす、こんな田舎に引っ込んで子供のためだけに費やすのは勿体ない、それでは時代に逆行する古臭い生き方ではないか、そのためならどんなバックアップでもするからと、主人が……」
「そこまで見込んでくれるお気持ちは嬉《うれ》しいのですが、わたしにはその気は全くありません」
日美香は何の迷いもない顔できっぱりと言った。
「で、でも……」
「申し訳ないですが、わたしはあまり政治には興味がないんです。それに、わたしが現世でしなければならないことは、政治家になることではなくて、母になることなんです。今この胎内に宿っているこの子を産んで育てることです。この子が母親を必要としなくなる年齢に達するまで。それが時代に逆行する古臭い生き方だろうが、わたしが現世でやらなければならないことなんです」
「……」
ゲンセイって何だろうと思いながら、美里は黙って聞いていた。
「それに、前世では、わたしはやむをえない事情があって、この子を一度捨てました。でも、二度と捨てるわけにはいかないんです。今度こそ何があっても、そばにいてやらなければ……」
「あの、そのゲンセイとかゼンセイとか言うのは……?」
美里は理解不能という表情で聞いた。
しかも、「この子を一度捨てた」って、まだ産まれてもいない子供をどうやって捨てるのだろう……?
「いえ、何でもないんです。独り言です」
「あ、独り言ですか……」
美里は、憮然《ぶぜん》とした表情で言った。
この超然として不可解な娘の姑《しゆうとめ》にだけは、なりたくないと改めて思いながら。
「今夜のおかずは何にしよう」と話している最中に「ゼンセイでは……」などと言われたら、どんな顔をしていいのか分からない。こんな噛《か》み合わない会話が毎日続いたらノイローゼになってしまいそうだ。
息子の嫁は、多少とろくてもいいから、普通の会話ができる平凡な娘がいい……。
「要するに、わたしの気持ちは全く変わらないということです」
日美香はもう一度言った。
「承知しました。主人にもそう伝えます」
「ただ、この子がもっと大きくなって、いつか、新庄さんのお力というかお立場を必要とする時が来るかもしれません。そのときはお力を借りにいくことがあるかもしれませんが……」
「それはもちろん、わたしどもにできることなら、どんなことでもするつもりですよ。今度はわたしたちを父母だと思って、いつでも頼ってきてください」
美里は少し気を良くしたような表情で答えた。