母方の祖父母の墓参りかたがた、私の生まれ故郷でもある台東区の谷中の墓地に桜見物に行った。昭和二〇年三月の空襲で家を失って、流れ流れて杉並村に居を構えて二五年になり、ここが|終《つい》の|栖《すみか》になりそうだが、ときに無性に谷中が恋しくなる。その土地には、亡くなった父や母の匂いがあるからだ。町の様子は戦前とすっかり変わって、向う三軒両隣の知人もいない。みんな何処かへ散ってしまった。しかし、道だけは変わらない。子供の頃、大通りだと思っていた団子坂から谷中天王寺町への坂道は、やっと自動車がすれ違うだけの道幅だった。そして、こんなせまい路地でキャッチボールをしたのかと想像もできない小路がちゃんと残っている。わが家の前が酒屋で、その隣が印刷屋、次にラジオ屋があって唐木屋(置物細工)と続き、角が植半という鰻屋で団子坂下からの道になっていた。わが家の隣は荒物屋、炭屋、喫茶店、そして角がその昔は焼芋屋だったが、戦争の激しくなった頃には古本屋だった。現在では有名な千代紙屋さんになっている。そんな一軒一軒の想い出をふりかえりながら、生まれた土地を歩くのは楽しい。
幸田露伴の名作『五重塔』のモデルになった谷中天王寺の五重塔は浮浪者かアベックだったか忘れてしまったが、火を出して焼いてしまった。その傍に妖婦高橋お伝の石碑があり、その隣が共同便所というのはどういうわけか……。
徳川家の|霊廟《れいびょう》を遠くから拝んで寛永寺坂を下って根岸へ出た。母方の大伯父は彰義隊の若年の隊士で、函館の五稜郭まで行って闘った武士である。銚子沖の軍船に乗るためには、根岸から水戸街道へと落ちて行ったのだろう。当時、このあたりの民家は戸を固く閉じて、その前に酒樽や握り飯を置いて隊士たちを|労《ねぎら》ったという。
根岸へ下りてから日暮里へ曲がる道角で、豆富[#「富」に傍点]「笹乃雪」の看板が目に入った。谷中に住んでいたときには、父に連れられて何度か食べに来た。子供にとって、豆腐料理オンリーというのは苦痛だったが、年寄りになったいまの私にはふさわしい食物である。昔と趣きがすっかり変わってしまったが、ぶらりと入って見た。
卯月を意識してのことではないが、心の隅の御先祖や父母への思慕の情が働いてフラリと入ったのだ。