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金子信雄の楽しい夕食5-04

时间: 2019-04-19    进入日语论坛
核心提示:    細魚の思い出 夜半の雨音で目が覚めた。|目《め》|敏《ざと》くなったこの頃に、ふと、歳を感じる。 五月雨にはまだ
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     細魚の思い出
 
 夜半の雨音で目が覚めた。|目《め》|敏《ざと》くなったこの頃に、ふと、歳を感じる。
 五月雨にはまだ早いのにと思いながら、家の竹藪をゆする|雨《あめ》|風《かぜ》に耳をすます。
 翌る朝、飯を食べながら庭先に目をやると、雨に濡れた藪の竹が青く色づいて爽やかである。
「綺麗だな」と私、すると長男が、
「竹というやつ、一年中生命を感じさせる不思議な植物だな」とポツリと言った。長男は|現《い》|在《ま》の杉並村に居を構えた年に生まれた、無口な方である。
 杉並村に越して来た頃、まだ、廻りは麦畑や畑地が多かった。わが家の庭先は、隣家の大地主の庭と地続きになっていて、雑木林がうっそう[#「うっそう」に傍点]と茂り、蔦蔓がからみ合ったさまはちょっとしたジャングルだった。兵隊の経験のある私は、ここで、キャメラアングルを|上《う》|手《ま》くすれば実験的8ミリの戦争映画が撮れるなと思ったりしたものだ。
 隣家との地境には大谷石を置き、その上に長さ五〇センチほどの孟宗竹の丸物を揃えて|棕《しゅ》|櫚《ろ》縄でつないで竹垣にした。わが家の庭は横に長く、三〇メートルほどもあるので、ちょっとした仕事だった。しかし、その竹垣は隣家の雑木林ともマッチして、なかなかよき風情があった。
 私の父は、東京の下町で歯科医を開業していたのだが、昭和ひとけたの頃、下町の|仕《し》|舞《もた》屋でブリキ製の竹垣まがいが流行って家の|囲《かこ》いに使っている家があったが、毒々しく青くて、見るからに安っぽい。下町の経済観念から生まれたものだろうが、私は嫌いだった。
 竹垣は存外に長持ちのするものである。二五年間のうちに、五回ぐらい作り直した。はじめは、丸物の節を揃えて作らせたのだが、節を揃えると、一本の孟宗竹のあらかたを無駄にしてしまう。一本の竹から三節も使えれば上等である。竹垣を直すたびに一〇〇本以上の太さを揃えた孟宗竹が必要である。とうとうその|費用《かかり》に降参して、三回目からは孟宗竹を半分に割って節目を気にせず太さだけを揃えて作らせた。それでも二〇万円ぐらいかかる。
 竹は一年中笹を散らすが、ときに、風もないのに庭先一面に笹の葉が散っているときがある。私はそれを竹秋と呼んでいる。ある年、竹の花が咲いたように稲穂状の白っぽいものを竹がつけた。さては、六〇年一花にめぐり合ったかと思ったが、枯れることもなく、その翌る年にも筍が生えた。毎年、筍のシーズンが来ると、わが家の朝掘りの筍を何本か食卓にのせる。京都の白子筍には及びもつかないが、掘り立てはお江戸の筍も悪くない。いまは無くなってしまったが、筍御飯を作ると、目黒の筍飯はこんなものであったろうぐらいの味はする。
 この頃では、一月の末に、大人の握りこぶしぐらいの筍が、京都錦小路の八百屋に出ている。主人は「天然ものだっせ」と言ったが、どういう意味なのか……。
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