秋の深まる北陸三県、富山、石川、福井を歩いた。早稲の産地北陸は秋の訪れが早い。すっかり取り入れの終わった田は、荒れた地肌を見せている。
富山のホテルの階上にある食堂から朝の立山連峰を眺めると、朝日に映えた姿をくっきりと見せて、旅の目を楽しませてくれた。まだ、雪は被っていない。
「こんな日は珍しいんですよ」
と、土地の人は言う。
実を言うと私は、終戦の日をこの北陸で迎えたのだ。残暑が厳しく、蝉鳴がひときわ高く、蒼く冴えた樹々に響いた。
「国破れて山河あり」
終戦の詔勅に耳を傾けながら、そんな思いにふけったことを思いだした。
北陸三県は米どころでありながら、何故か|余《よ》|所《そ》者にはかたくなで、米を売ってくれない。しかたがないので、苗採りのすんだガリガリのサツマ芋・農林一号や草の根を齧って飢えをしのいだ。信仰心の厚いお国柄だが、何故か余所者には冷たい。
現在の小松空港(石川県)は、当時、海軍渡洋爆撃隊の基地で、戦争末期には飛べば再び還れぬ特攻機の基地でもあった。特攻機が前線基地へ飛び立つ朝は、街全体が静寂のなかに打ち沈み、昼夜の別なく戦車などの武器を作っている小松製作所の工作機械の唸りだけが、空しく町なかに響いた。
町の人は、雪に備えた深い廂のついた家のなかで、死地に赴く若者を偲びながらひそかにお念仏を唱え、|数《じゅ》|珠《ず》を繰っていたのだろう。
歌舞伎『勧進帳』で名高い「安宅の関」は当市にある。いまでは日本海特有の荒波に削られて街道はなく、松もまばらな砂丘にその記念碑があるだけである。義経、弁慶の一行も、終戦時の私と同じように飢えに耐えながら落ちのびていったのだろうが、彼等には富樫の|情《なさけ》があった。
北陸は米ばかりでなく旨いものがいくらでもある。しかし、終戦時に滞在した十か月の間、旨いものを食った印象はひとつもない。
大阪に向かう特急「雷鳥」の車中で笹に包まれた二段の鱒鮨を食らいながら、ただひとつだけ想い出した。黒部峡谷へ向かう途中でふるまわれたドブロク(|濁酒《にごりざけ》)の味である。
村長や駐在所の巡査までが「これは酒ではありません。山羊の乳です」と言って、茶碗になみなみと注いでくれたが、朝鮮ドブロクと違い、酸味も臭みもない芳醇な香りを放つドブロクであった。あんな旨い濁酒をあれから四〇年飲んだことがない。
あれは、本当にこの世のものであったのだろうか。そんな思いがいまもしている。