年の瀬の町並を、正月の飾り笹をゆすりながら、軽く唸りをあげて木枯らしが吹き抜けて行くと歳末大売出しのチンドン屋のクラリネットが、木枯らしに合わせるように去り、明りを煌々と灯した米屋の賃餅つきの|杵《きね》音と|蒸籠《せいろ》の湯気が忙しげな買出しのお客の背を追いかける。
そんな師走の夕暮れの町を、私は母が丹精を籠めて作ってくれた肩揚げ腰揚げを目いっぱいに着けた仕立て下しの|絣《かすり》の着物を着てお使いに出る。手には|鬱《う》|金《こん》の小さな|布袋《ぬのぶくろ》をしっかり握っている。
「御隠居さんに、お願いしますってお渡しするのよ、気を付けて行きなさい」
「うん」
正月の仕度に追われている母に代わって|大《おお》|家《や》の処へ家賃を届けに行くのだ。町一番の金持で米屋の大家さんの自宅は、わが家から五、六軒先の並びにある黒板塀の小粋な平家である。
戦前、東京の下町では、持家住まいの者は|殆《ほとん》どいなかった。私の父は、大正の中期に開業した歯医者だったが、二十年の余も開業していても、自分の家は持てなかった。また、その必要もなかった。父は、同じ町内で三度引越しをしたが、その都度、大家は店子の商売に便利なような家を新築してくれた。|勿《もち》|論《ろん》借家である。
戦前の下町には、江戸時代の大家と店子の関係が、まだ、残っていて、町内の名士だった父は、大家が町会長のときは副会長であり、その関係は戦争が始まり、防護団団長、警防団団長になっても続いた。
大家の御隠居のもとに家賃を届けに行くと、付帳に受判を押して金を受け取った隠居はかならず、お駄賃をくれた。それは、たいていは最中のような和菓子か名物の谷中煎餅だったが、ときには森永のミルクキャラメルをくれたりした。
お歳暮に、薬品ホータイの入った救急箱一式を届けると、家主からは、さけの新巻が一本届いた。子供心に、
「シャケより救急箱の方が高いのに、大家のケチ!」と、よくそんなことを思った。
正月の仕度に忙しくなると、わが家の夕食は、いささか粗食になる。一汁一菜で、その一菜は塩ジャケのひときれか町の肉屋で揚げる一枚八銭のカツレツか三個十銭のコロッケ、父にはもう一品湯豆腐か胡麻よごしなどがつく。わが家は書生も女中も食待遇は|主人《あるじ》を除いては平等である。ときには、一枚十五銭のロースの特カツレツが食卓につけられることがある。そのときには、刻みキャベツのほかに、ポテトフライがつく。特カツは、特別の注文で揚げるので、肉屋の店先で待っていてもなんとなく気分がいい。いつもなら気になるヘッドやラードの臭いもちっとも気にならない。しかし、その翌る日はいけない。夕餉のご馳走は塩びきのシャケ[#「シャケ」に傍点]にホウレン草のおひたし、私は、シャケの魚肉をほぐすと、茶碗いっぱいに散らし、もみ海苔をシャケが見えなくなるくらいに振り、お茶漬けにして食べた。シャケ茶漬のヤケ食いである。子供の頃は、どうしても鮭の皮を食べることができず、皮にひっついた魚肉が憎らしかった。
その食い物の恨みは、大晦日までに作られるお節料理のおこぼれにあずかることでキレイに忘れてしまう。お|煮《に》|〆《しめ》や玉子焼を作っているとき、脇に立っていると、母がちょっと|摘《つま》んで口に入れてくれる。八ッ頭のアツアツなどは、目をシロクロさせながら、舌にまつわる芋のねばりや煮汁を楽しんだものだ。