この頃のように、外で総ての料理を賄うことの出来る時代に「もてなし料理」はどのようにしたらよいかととまどう人は多い。謡曲で有名な鉢の木[#「鉢の木」に傍点]の佐野源左衛門のようなもてなしは冷暖房の完備した今日ではちょっと考えられない。しかし、もてなしの究極は、やはり「鉢の木」に通じるものがあるのではないかと私は思う。
私の母は十四年前の正月に亡くなったが、前の年の暮れに私が頼んでおなますと煮しめを作ってもらった。母は「私の作ったものなんか孫たちは食べないわよ」と言いながらも楽しげに作っていた。前の年の正月料理は伝統的なお節料理を息子たちが知らないので、私が知人の京都の料理人に頼んで四の重を作ってもらい正月の食卓に出したが、これが昔の正月料理かとあまり関心を持たずに、ただ、ムシャムシャと食べただけで終った。
わが家では、以前からお煮しめとおなますだけは母が作り、後の仕事は殆んど私が受け持って妻は黒豆作りに専念する。
その年のお煮しめとおなますは、中学生だった息子どもは旨い旨いと言っていつになく箸がすすんだ。母は孫の食べるさまを嬉しそうに見ていた。そして、正月六日の夜、心筋梗塞で呆気なくあの世へ旅立った。お煮しめは片づいていたが、おなますは母が例年、沢山作るので、まだ充分にあった。息子共は、それを冷蔵庫から出してきては「おばあちゃんの味」と言って二月になるまで食べた。私も勿論食べたが、子供の頃から馴染んだおふくろ[#「おふくろ」に傍点]の味に変りはなかった。しかし、日頃、お煮しめやおなますを口にすることのない息子が喜んで食べたということは、母の一期一会の作品だったのかも知れない。それ以後、私は何度となく「おなます」作りに挑戦したが、おばあちゃんの作った味とは違うと言って息子は受けつけてくれない。
いまにして思うと、お煮しめとおなますは亡母の孫たちへの最後の「もてなし」だったのだろう。