横浜地方気象台が、ようやく、ソメイヨシノの開花宣言をしたのは、前年より十二日も遅かった。
四月二日、土曜日。
桜前線到着が報じられたと言っても、横浜市の花は、まだ、ほとんどが、つぼみのままだった。
港の見える丘公園とか、外人墓地周辺にしても、同様である。
花曇りで、気温も低かった。最高気温が、例年より四度も低い十一度に過ぎない。
それでも、土曜日とあって、横浜港も、山手の丘も、人出が多かった。市外から訪れた、若い男女の姿も目立った。
その二人は、山梨県大月市から日帰りでやってきた恋人同士だった。
二人は小型カメラと観光案内図を片手に、港の大桟橋を歩き、マリンタワーに上り、それから港の見える丘公園に向かった。
恋人同士は、途中のスタンドで、ハンバーガーとオレンジジュースを求めた。そして、山下公園沿いの、いちょう並木の舗道を歩きながら、ハンバーガーを食べた。それが、若いカップルの早目の昼食だった。
二人が堀川にかかる山下橋を渡り、港の見える丘公園へつづくフランス山に足を向けたのは、午前十一時過ぎである。
フランス山公園は、大きく枝を広げた樹木が多い。散策路は、大木の間を縫《ぬ》って上がっている。
その細い坂道までくると、人影もぐっと少なくなった。
「やっぱ、きてよかった。港がある町っていいわね」
「帰りは、横浜駅の東口まで、シーバスで戻ろうか」
二人の口調が軽くなっていたのは、人気の少ない小道での、解放感のせいだろう。
恋人同士は、手を取り合って、立ち木の中の坂を上がっていく。
しかし、平穏は持続されなかった。木の間隠れに、新山下の貯木場を見下ろす曲がり角まできたとき、足音が、物すごい勢いで、坂の上から駆け下りてきたためである。
砂利と赤土の急坂を、足を滑らすようにして下ってくるのは、二十代の若い男だった。黒っぽいコートのえりを立てていた。
『ぼくと同じような体型でした。一メートル六十八で、六十キロぐらいかな』
『薄いサングラスをかけてたわ。うん、長髪でした。髪の長さは肩ぐらいまでだったと思います』
と、若い恋人同士は、後で山下署の刑事にこたえている。
その、サングラスの男が、曲がり角を曲がり切れないといった感じで、恋人同士にぶつかってきたのだ。
男の息遣《いきづか》いが荒かった。
手を取り合った恋人同士は、一瞬、柵《さく》の側に身を避けたが、
「失礼!」
男は一言そう言い残しただけだった。黒いコートのすそを翻《ひるがえ》し、さらに加速度をつけて、狭い坂道を下っていった。
まるで野良犬のような、乱れた息遣いだった。あっという間の遭遇だった。
何があったのか。
それが何であるのか、もちろん分かるわけはないが、坂の上で、異変が生じたことは間違いなかろう。
「あら?」
彼女は、男の足音が消えたとき、柵の下を指差していた。
一冊の文庫本が転がっていた。
いまのいままで、坂道に文庫本など落ちてはいなかった。サングラスの男の遺留品であることは、すぐに分かった。
彼は彼女の発見を継承して、柵の下にかがみこんだ。
文庫本に手を伸ばそうとして、彼は、慌ててその手を引っこめていた。
低い、乾いた声が、彼の口から漏れた。
「血じゃないか。そう、間違いない。これは血だ」
「血?」
彼女は、彼の背後から、恐る恐る柵の下の遺留品をのぞき込んだ。
文庫本にはカバーがなかった。白っぽい表紙全体に、真っ赤な染みが広がっている。染みのため、表紙の文字が読めないほどだった。
それは、まだ変色していない。文庫本に残された鮮烈な彩りは、血が、付着した直後であることを示している。
「恐いわ」
彼女の顔から、さっきまでの明るい微笑がうそのように消えている。
「交番へ知らせよう」
彼は、彼女の手を取り直した。
サングラスの男が駆け下りてきた坂道を、このまま上がる勇気はなかった。
若いカップルは、そこでくびすを返すと、サングラスの男にも劣らないスピードで、大木の下の小道を下った。
派出所は、元町《もとまち》商店街の港寄りにあった。観光用の、二階建てバスルートになっている谷戸坂の上り口。
フランス山公園を出て、徒歩一、二分の場所である。
土曜日の元町商店街は、正午から夕方六時まで、歩行者天国となる。
若い二人が、人込みをかき分けて、
「大変です!」
と、派出所へ飛び込んだのは、間もなく、商店街に交通規制が敷かれようとする頃だった。