派出所の巡査は、
『本当に血塗られた文庫本だったのですか』
といった目で、二人を振り返ったが、それは、その後で通りかかった別のカップルによって、坂の上の方の派出所に届けられていたのだった。
谷戸坂の下り口にある、港の見える丘公園前の派出所だった。
後からきたカップルは、坂をそのまま上がっていったわけだから、木立ちの中の小道に�異変�はなかった、ということになる。
しかし、港の見える丘公園へ至る隘路《あいろ》に�異変�はなくとも、文庫本に付着するそれが、真新しい血痕であることは、間違いなかった。
所轄山下署の鑑識係が分析したところ、それは人間の血液であり、O型であることが分かった。
だが、坂の上の派出所にも、坂の下の派出所にも、�異変�は急報されていない。該当する一一○番も入っていない。
どこで、何が起こったのか。
山下署の刑事課捜査係主任は、中山というがっしりした体格の、巡査部長だった。
中山部長刑事は、若手の堀刑事を伴って、フランス山の散策路に立ったとき、
「花見には二、三日早いが、桜の季節の刃傷沙汰《にんじようざた》か」
と、後輩刑事に言うともなく、つぶやいていた。
サングラスの男の慌てた行動は、�逃亡�を意味している。そう解釈して、間違いあるまい。
と、なれば、どこかに�事件�が発生していなければなるまい。
それも、フランス山公園から、遠くない場所でだ。昼前から、花見酒だろうか。
聞き込みは、二手に分かれて着手された。すなわち、�被害者�捜しと、サングラスをかけた、黒っぽいコートの男の追跡である。
事件発生の有無を確認する方には、警察犬が動員された。
逃げた男の行方ははっきりしなかった。
横浜港の周辺は、人出が多過ぎたのである。人が多いことは、�目撃者�の増加を意味しない。
むしろその逆だった。
それらしき男が、JR石川町駅方面へ向かって、元町商店街を歩いていったという証言もあったし、谷戸橋を渡り、テレビ神奈川の前からタクシーを拾ったという聞き込みもあった。
いずれも、正確な裏付けはなかった。文字通り、お手上げと言っていい。
しかし、サングラスの男は、確かに�逃亡�していたのである。
それを、警察犬が嗅ぎ出した。
人間の数千倍の嗅覚を持ったセパードは、血塗られた文庫本の落ちていた場所から、スタートを切った。
セパードは、しばしの逡巡の後で、真っすぐ急坂を上がった。
フランス山を上り切ると、樹木に覆われていた道には空が開けてくる。観光客の姿も、ぐっと多くなる。
セパードは、花壇と芝生で区分された港の見える丘公園を横断し、大仏次郎記念館の前を通った。
左折して、陸橋を渡ると、神奈川近代文学館となるが、セパードは、陸橋の手前で、本牧《ほんもく》埠頭の方向へ下りた。
公園の混雑とは裏腹に、全く人気のない枯れ草の傾斜地を、セパードは一目散に走った。
セパードが異常な反応を示したのは、枯れ草の繁みがこんもりした場所へきたときである。
最悪な形での、発見だった。
中山部長刑事がつぶやいたように、それは刃傷沙汰であり、完全なる殺人事件だったのである。
死者は、三十代と思《おぼ》しき男性で、分け目なしのリーゼントふうヘアスタイルだった。男は枯れ草の中で、背を丸めるようにして息絶えていた。
右腕と右胸、それに背中の三ヵ所を刺されており、死因は失血死だが、死者はバックスキンのブルゾンを着ていたせいか、血は飛び散っていない。従って、男を襲った犯人も、返り血はほとんど浴びていないはずだ。
凶器は、枯れ草の中に遺留されていた。刃渡り十一センチの、真新しい果物ナイフである。
中山部長刑事と堀刑事が駆けつけたとき、すでに男の呼吸音は聞かれなかったが、その体内には、わずかに、ぬくもりが残っているようでもあった。
息絶えてから、いくらも経っていない死者だった。