「ひょっとして、主人ではないでしょうか」
と、問いかける口調が上ずっている。
電話を受けたのは、刑事課長だった。
受話器を持つ刑事課長の表情が、次第に険しくなった。
容貌、服装、そしてスイス製の腕時計まで、ぴたり合致するようである。
別けても、刑事課長の横顔に緊張が走ったのは、
「文庫本を持っていなかったでしょうか」
と、女性の方から質問してきたときである。文庫本は、犯人割り出しの、重要な決め手となる可能性が強い。そこで、記者発表では一切伏せられていたのだ。
「ご主人は、文庫本を持って、家を出られたのですね」
「はい」
と彼女がこたえたのは、正に、『桜の樹の下には』が掲載されている文庫本だった。
「ご主人は、外人墓地の墓前祭に出席するおつもりだったのですか」
「それは分かりませんが、横浜へ遊びにいくとは申しておりました」
電話は、東京からだった。
大森裕《おおもりゆたか》 三十七歳 東京都|三鷹《みたか》市牟礼四七○『コーポ立野』408号 広告代理店『泰山』雑誌部第二企画課長
刑事課長は、受話器片手にメモをとった。問い合わせの電話は、ほかにも何本か入っていたけれど、確率からいえば、これが、最高だ。
『泰山』の本社は東京・有楽町。早くからテレビのCM制作などもしている一流会社だ。
「恐縮ですが、早速、横浜へお越し願えますか」
「もちろん、そうさせていただきます。しかし」
と、大森の妻は口ごもった。
逡巡の意味はすぐに分かった。大森の妻は、独りで遺体を確認することが、恐かったのだ。
品のいい、控え目な性格であることは、電話の口調からも察せられた。
近くに住む実弟に連絡したので、
「弟がこちらへ到着次第、弟と一緒に伺います」
と、大森の妻は言った。
刑事課長は、死者が大森裕であると判明しただけに、質問を先延ばしにすることができなかった。
「それでは、弟さんがお宅へ見えるまで、二、三お話を聞かせてください」
刑事課長は受話器を持ち換えた。
「ご主人は、横浜へ遊びにくることが多かったのでしょうか」
「滅多になかったと思います。あたくしは、聞いておりません」
妻は、相変わらず控え目な話し方ではあるけれど、刑事課長の質問には、積極的に応じた。
遺体を見ていないとはいえ、死者が夫であることは、いまや、百パーセント間違いないのだ。
おとなしい口の利き方をする妻は、より一層、何かにすがりたい気持ちがつのってきたのだろう。自分の方から、電話を切る意思はないようだった。
大森の妻は、子供は小学校二年生になる男の子が一人、一家はマンションの三人暮らしで、夫は高校大学時代から文学好きの読書家だった、というようなことを、問われるままにこたえた。
大森裕は、広告代理店勤務という職業柄、残業は多いし、酔って帰ってくることも連夜だったが、家族思いの、人柄だという。
職場での対人関係も、うまくいっている。特に、不満を漏《も》らしたことはないという。
「すると、今回のような不幸に巻き込まれたことについて、奥さんとしては、全く思い当たることはないとおっしゃるのですね」
「主人は、だれかに、生命を狙われるような人間ではありませんわ」
妻ははっきりと否定した。ごく一般的な夫であり、父親である、と、彼女は繰り返した。
「主人は、会社でも、順調に出世コースを歩んでおりました。次の人事異動では、次長になれそうだ、とも申しておりました」
「ところで」
刑事課長は、また受話器を持ち換えた。
「横浜には、どなたかお知り合いがいるのですか」
「いいえ。家族ぐるみでおつきあいしている方は、おりません。あたくしは東京、主人は茨城の出身です。主人の知人も、横浜にお住まいの方はいないはずです」
「すると、文学好きだったというご主人が、外人墓地の催しを知って、参加する気になったということかな」
と、刑事課長が、文庫本に新聞の切り抜きが挟まっていたことを告げると、
「あの文庫本が、問題なのでしょうか」
電話を伝わってくる声が重いものに変わった。
「文庫本に関して、奥さんは何かお気付きなのですな」
「いまも申しあげたように、主人は平凡なサラリーマンです。他人《ひと》様の恨みを買うような人間ではありません。でも、あれは妙でした」
「妙?」
「主人は仕事で神経をすり減らすせいか、休日は、今日のように、細かい行先も告げずに、ふらっと出かけることがありますの」
と、妻は言った。
彼女が文庫本に対して抱いた不審は、その大森の癖というか、詳しい目的も言わない外出に関連があるのかもしれない。
大森は文学好きだったというから、一流広告会社の次長にもなろうという、三十七歳になった現在でも、文学青年の気質がどこかに残っているのか。
刑事課長がその点を質すと、
「文庫本は一週間ほど前に、どこからか送られてきたものです」
と、妻は言った。
どこからか、とは、どういう意味だろう?
「はい、自宅《うち》のマンションあてに郵送されてきたのですが、差出人の住所も名前も記されていなかったのですわ」
封筒の裏側には、ただ一字「桜」と書かれていただけだという。
「さくら? 桜の花の桜ですか」
「そうです。漢字で、小さく記入されていました」
問題は、夜遅く会社から戻ってきて、郵送されてきた文庫本を手にしたときの、大森の驚愕だ。
その夜も、大森は酒に酔って帰宅したのであるが、
「ん?」
と、一声発するなり、酔いも醒めたかのように、文庫本をしまい込んでしまったというのだ。
そして、次の一瞬、大森は、そうした自分を、妻の目から隠そうとしていたというのである。
「奥さんは、ご主人の変化に気付いた。当然、理由を尋ねられたわけですね」
「主人は、何でもないの一点張りで、話題を避けてしまいました」
「前にも、それに類する妙なことがありましたか」
「いいえ。結婚して十年になりますが、こんなおかしなことがあったのは、後にも先にも一度だけです」
「どこからか郵送されてきたとなると、その文庫本は、ご主人の蔵書ではなかった、ということになりますな」
「どうでしょうか。主人は蔵書が多いもので」
あるいは、だれかに貸してあったものが戻ってきたのか、どうか、そこまでは分からないと妻はこたえた。
しかし、今朝、大森がその文庫本持参で出かけたのは、間違いないという。
『今日はどうしても出かけなければならない』
大森はそう言い置いて、時間を気にしながら、マンションを出て行ったという。
約束、というのも、いまにして思えば、
「だれかに呼び出された感じでした」
と、大森の妻は言った。
「あの文庫本に、そのような新聞の切り抜きが挟んであったのですか。それを主人が持っていたとなると、やはり、あの文庫本が問題となりますか」
「文庫本は、ご主人が所持していたのではありません」
犯人が落として行ったのだ、と、刑事課長が説明すると、
「犯人は、『桜』と書いて文庫本を郵送してきた人でしょうか」
大森の妻の声が、さらに暗いものに変わった。
(どうも、よく分からない事件《やま》だな)
刑事課長は長い電話を終えたとき、自分に向かって、つぶやいていた。