大森裕の妻が、実弟とともに横浜・山下署へ駆けつけて、変わり果てた夫を確認している頃、横浜から四百八十キロも離れた古都・奈良郊外の山中で、宵桜を楽しみながら、夕食を取る一家があった。
峡谷越しに、信貴山朝護孫子寺《しぎさんちようごそんしじ》を望むホテルだった。
深い谷の向こうとこちらは、開運橋によって結ばれている。
橋を渡り、ずらりと並ぶ千体地蔵を右に見て楼門をくぐり、石灯籠のつづく長い参道をいくと、朱塗りの三重塔、多宝塔、そして、多くの堂宇《どうう》が軒を接しているのである。それが、朝護孫子寺だ。
朝護孫子寺は、毘沙門天《びしやもんてん》を本尊とする、大和の名刹だった。
寅の日が、寺の縁日となっており、門前では、大小さまざまな、張り子の虎が売られている。
これは、聖徳太子が物部守屋《もののべのもりや》を討つため、信貴山で必勝祈願をしたところ、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に毘沙門天が現れ、その加護で勝利を収めたという、故事に由来しているのである。
毘沙門天は、七福神の中でも、商売繁盛、家内安全、心願成就の福の神として有名だ。福徳開運の毘沙門天は、関西のみならず、広く全国から信仰を集めている。
寅の日を中心にして、参詣者が多い名刹は、境内も広大である。
それは、信貴山南東中腹の、ほぼ全域を占めているほどだった。
広い境内から、山頂へかけては、桜の巨木が多いことでも知られている。
春の訪れとともに、峡谷にかかる開運橋周辺は、風景のすべてが花に埋まる。
開運橋の下は、東西に長い大門池で、その峡谷を挟んで、朝護孫子寺とは反対側の斜面に、何軒かの旅館、ホテル、土産物店、食堂などが点在しているのである。
東京の世田谷区から遊びにきた、寺沢隆《てらさわたかし》の一家は五人連れだった。
三十代後半の寺沢夫婦と、小学生の二人の女の子と、寺沢の妻の母親。
一家は、二人の子供の春休みに合わせ、四月一日から三泊四日の日程で、宇治平等院や奈良の桜を見にきたのだった。
昨日は奈良の中心、高畑町のホテルに一泊。
この日はハイヤーをチャーターし、奈良公園を歩き、興福寺、東大寺、春日大社などを観光してから、生駒スカイラインを経て、信貴山へきた。
投宿したのは『ホテル信貴』であり、夕食は、数寄屋造りの座敷で、時間をかけて食べた。
ホテルの庭園越しに、開運橋の赤い欄干と、朝護孫子寺の広大な境内が望める、落ち着いた日本間である。
和やかな雰囲気に包まれた五人は、傍目にも、平和そのものの家族と映った。
経済的にも、もちろん人一倍恵まれている一家だった。
寺沢の父親は、東京・品川に本社を置く『徳光製靴』という二部上場会社の社長であり、寺沢は父親の下で総務部長を務めているのである。
いずれは、父親のあとを継いで、社長となる立場だ。
ゆっくりと山菜料理を味わっているうちに、春の山は暮れてくる。
空が暗くなり、夜目に、桜の花が白く感じられるようになると、対岸の石灯籠に灯が入った。
長い参道には、ぎっしりと、無数の石灯籠が立ち並んでいるのである。
石灯籠のひとつひとつに点る灯と、その鈍い明かりに浮かび上がる夜桜は、何ともいえない神秘的なムードを醸《かも》し出す。
今日は縁日ではなかった。いまは全山が人気もなく、ひっそりとしている。
「お食事が終えたら、どうぞ、お出かけなさいまし」
仲居は、デザートのメロンをテーブルに載せたところで言った。
小学生の女の子二人は、古都の寺社めぐりに飽きたのか、柿の風呂吹き、子持ち鮎の甘露煮、無花果《いちじく》のホワイトソースかけ、椿の花や虎杖《いたどり》のてんぷらといった、山菜料理の夕食が不満なのか、
「ママ、お部屋へ行って、テレビを見たいよ」
と、ぐずったりしているが、妻の母親は、
「それじゃ、隆さんに、夜桜見物に連れていっていただきましょうかね」
と、桜湯を飲みながら、婿の顔をのぞき込んだ。
寺沢はアルコールには弱い体質なので、妻と分け合ったお銚子一本の地酒『信貴』で、顔を真っ赤にしている。
山の中のホテルは静かだった。
対岸の石灯籠に、一斉に灯が入ったとはいえ、いま、広大な境内は、無人ともいえる静寂を漂わせているのだ。
寺沢はメロンを食べ、妻の母親と同じように桜湯を飲むと、ケントに火をつけた。
もう一人の仲居が入ってきて、寺沢に電話がかかってきたことを告げたのが、そのときである。
「お電話は、こちらに回してございます」
仲居はひざをついて、部屋の隅の違い棚から受話器を取った。
寺沢の表情が見る間に変わってきたのは、
「あ、どうも」
と、たばこをもみ消して立っていき、
「寺沢ですが」
と、受話器を耳に当てた一瞬である。
「きみか、きみは一体だれなんだ?」
寺沢が早口で、そんなふうに問いかけたのを、寺沢の妻と母親は耳にしている。
寺沢は家族の注意を意識してか、テーブルの方に背を向け、送話口を、両手で囲うようにした。
そして、低いが、さらに激しい口調で、
「どういうことかね」
と、繰り返す寺沢の詰問を、妻ははっきりと聞いている。
電話は長くかからなかったけれども、寺沢が急に塞ぎ込んでしまったのは、それ以来だった。
「お電話、東京からですか」
「お仕事の、急ぎの連絡だったのですか」
と、妻が問いかけるのも、上の空といった感じで、
「ちょっと出かけてくる」
寺沢はいったんテーブルに戻ってきたものの、すぐにまた立ち上がっていた。
「お出かけって、王寺《おうじ》まで下りるのなら、ホテルでタクシーを呼んでもらわなければいけないでしょ」
と、妻は言った。
信貴山の最寄り駅は、関西本線の王寺だ。王寺からはJRで奈良駅まで十五分。逆行の大阪方面は、天王寺駅までおよそ二十二分。どこへ出るにしても、王寺を経由しなければならない。
『ホテル信貴』から王寺まで、タクシーで十分ほどだが、信貴山にタクシー会社はないので、下から呼んでもらうことになる。
妻はそれを承知しているので、尋ねたわけだが、寺沢は、
「いいんだ、すぐ近くまでだから」
というような言い方をし、妻の問いかけには、まともにこたえなかった。
寺沢は団欒《だんらん》中の家族をそこに残して、数寄屋造りの座敷を出ていった。
取り付く島もない、後ろ姿だった。何か、判然としない力によって、ふいに家族を拒否している感じだった。
そのため、妻が思わず二の足を踏んでいる間に、寺沢は、すうっと、音もなくといった感じで、桜が咲く夜の中へ消えていったのである。