事件が表沙汰になった後で、所轄王寺署の刑事は、尋ねている。
『一度もありません』
と、寺沢の妻は、次のようにこたえた。
『今回の旅行は、春休みの子供たち二人のために計画されたものでした。信貴山で山菜料理をいただくことだけは、あたくしの母の希望でしたが、いずれにしても、お仕事を離れた、家族主体の旅行です。家族思いの主人が、家族をほったらかして、事情も打ち明けずにホテルを出ていくなんて、考えられません』
だが、妻にとって気になる点が、皆無というわけではなかった。実は、前夜も、釈然としない電話が、一本入っていたのである。
前夜、一家は奈良市内の高級ホテルに泊まったのであるが、電話は、やはり夕食の時間にかかってきた。
一階のレストランでフランス料理を食べているときに、ボーイが電話を伝えてきた。
前夜も、電話は手短だった。手短ではあるが、電話を終えて戻ってきた寺沢は、急に口調が重くなっていた。
そのときは、
『お仕事のお電話ですか』
『ああ、東京からだ』
といった会話が交わされたけれど、後で思えば、あれも『ホテル信貴』へかけてきた電話と同一人だったかもしれない、と、寺沢の妻は言った。
しかし、同一人が、同一条件でかけてきたのだとしても、寺沢の妻には、全く思い当たることのない電話であった。
『ところで、ご主人は、前にも信貴山へこられたことがありますか』
と、刑事が念を入れたのは、
『すぐ近くまで』
と言い置いてホテルを出ていった寺沢の、土地鑑を確認するためだった。
土地鑑はなかった。
寺沢が生駒スカイラインから信貴山へ足を伸ばしたのは、今度が最初だった。奈良は、中学校の修学旅行できて以来だというから、ほとんど二十五年ぶりだ。
今回の三泊四日の旅行にしても、『徳光製靴』出入りの旅行社に一任したスケジュールだった。
すると寺沢は、初めての土地で、しかも、日がとっぷりと暮れてから、暗い夜の底へ誘い出されていったことになる。
町中とは違って、人気も少ない山の中に、何が待ち受けていたのか。