神奈川県警記者クラブの『毎朝日報』キャップ谷田実憲《たにだじつけん》は、他社よりも一歩早く、協力態勢をキャッチしていた。日頃、昵懇《じつこん》にしている、淡路《あわじ》警部を通じてだった。
四月三日。
日曜日ではあったが、山下署の捜査本部を取材するために、谷田は平常勤務についていた。
その山下署で、そこにはいないはずの、淡路警部の、ギョロリとした目と、出会ったのである。間もなく、昼休みになろうとする時間だった。
県警本部捜査第一課の課長補佐淡路警部は、港北区の菊名《きくな》署に設置されている殺人事件の捜査本部に出向していたのだが、昨日の事件が、奈良県と密接な関連を持ってきたために、急遽《きゆうきよ》応援に回されてきたのである。
菊名署の方は、スナックのホステス絞殺事件だった。発生以来二ヵ月近くなるのに、捜査は一向に進展していなかった。
捜査本部は縮小されて、迷宮《おみや》入りがささやかれている矢先であった。
捜査員にとって、迷宮入りほどの屈辱はない。
淡路警部にそのショックが少なかったのは、菊名署に殺人事件の捜査本部が設置された当初は別の事件《やま》にかかわっており、応援が、後半からだったせいかもしれない。
「菊名署で破れなかった壁を、山下署で崩すことになった」
淡路警部は、山下署の中廊下で谷田とすれちがったとき、
「殺人《ころし》に純文学とやらの文庫本が登場してきたのは、初めてだよ」
と、そんな言い方で、遠く離れた二つの捜査本部が、一点に結ばれたことを言った。
「奈良の捜査員は、いつ横浜へくるのですか」
「とっくに、京都から新幹線に乗っているんじゃないかな。午後には、本署で合同捜査会議が開かれる」
「警部、その前に腹ごしらえってのはどうですか」
谷田は大柄な背をかがめるようにして、警部の浅黒い顔をのぞき込んだ。
「ああ、ぼくはそのつもりで部屋を出てきたんだ。しかしねえ」
警部は渋い顔をした。
「記者発表は合同捜査会議の後、ということになっているのだよ。その前に、毎朝のキャップと、肩並べて捜査本部を出ていくわけにはいかない」
「ぼくだって、警部と肩を並べる気はありませんよ」
谷田はうなずき、
「中華街に、豚骨《とんこつ》ラーメンのうまい店があるのをご存じですか」
と、山下町公園と向かい合う広東料理店を、警部の耳元でささやいた。
山下町公園というのは、海岸公園とは全く別個なもので、中華街の裏手にある小公園だった。山下署からゆっくり歩いても、十分とはかからないだろう。
豚骨ラーメンをカンバンにするその広東料理店も、目立たない、小さい店だった。
「警部、一足先にいって、二人前注文しておきます」
と、谷田が早口になったのは、他社の記者が数人、ぞろぞろと裏の通用口から入ってきたためである。
「ラーメンは、伸びるとうまくありませんよ」
谷田はそう言い置いて淡路警部の傍から離れると、固まってやってきた他社の連中に向かって、
「や」
と、片手を上げて、通用口から外へ出た。
古い三階建てである山下署は、中華街の港側に位置している。
戸外は、昨日と同じように、低い気温の花曇りだった。
気候はいまひとつだが、中華街は、土曜日の昨日にも増して、早くも相当なにぎわいを見せている。大通りは、早足では歩けないほどの人波だった。
山下町公園に面した裏側の通りも、結構混雑している。
谷田は、何となく周囲を見回してから、広東料理店へ入った。
小さい店も込んでいた。
淡路警部は、谷田が注文した豚骨ラーメンがテーブルに載らないうちに、追いかけてきた。
「この分では、谷田さんが愛する後輩も、横浜へ飛んでくるだろうね」
警部は『週刊広場』の浦上伸介《うらがみしんすけ》のことを言い、
「週刊広場に限らず、週刊誌の取材記者やテレビのレポーターが、東京からどっと押し寄せてくるのは間違いない」
と、口元をとがらせて、顔を振った。
一階の、一番奥のテーブルだった。こぢんまりした店の中でも、もっとも目立たないコーナーである。
「警部、横浜と奈良のデータは、どのくらい重なり合っているのですか」
谷田は、テーブル越しに額を寄せるようにして、じわじわと探りを入れた。
いずれ記者発表はあるわけだが、その内容を一刻も早く知りたいのが、新聞記者だ。
「どうせ、今日は夕刊がありません。ちょっとばかり早く情報《ねた》をもらっても、どうということはないでしょう。間違っても今日活字にすることはないのだから、警部にご迷惑はかけません」
谷田は笑みを浮かべながら両掌を合わせ、軽く頭を下げた。
谷田は社会部記者として、キャリアが長い。警察関係にも、当然顔が広い。
だが、淡路警部との交流は、別ものだった。オフレコで情報を流してもらうほどに親しい仲であるのは、谷田の側からも、時には先行した取材結果を、提供してきたためだった。
谷田にとって、ルポライターの浦上伸介は東京の私大に通っていた頃のごく親しい後輩に当たるわけだが、犯人の偽装アリバイ工作を浦上と解明して、淡路警部にそっと耳打ちしたことも数多い。
双方とも、もちろん、一定の礼儀はわきまえているけれども、いわば、持ちつ持たれつの関係であった。
ラーメンが運ばれてきた。
「物証は三つしかないが」
と、淡路警部は言った。警部は豚骨ラーメンにたっぷりと黒|胡椒《こしよう》をかけ、割り箸《ばし》を紙袋から抜いた。
凶器である刃渡り十一センチの、真新しい果物ナイフ。文庫本。そして文庫本から検出された指紋。
この三点の物証を総合すると、横浜と奈良の犯人《ほし》は同一人になる、と警部はつぶやくような小声でつづけた。
しかし、�横浜�の文庫本は、被害者大森裕三十七歳の所有物であることがはっきりしているけれど、�奈良�の場合は違った。大門池で刺殺された寺沢隆三十九歳は、そのような文庫本など持っていなかった、と寺沢の妻は証言しているのである。
寺沢は文学好きでもなければ、読書家でもない。
すると、�奈良�の方の文庫本は、犯人の持ち物だったのか。
谷田がその点を質《ただ》すと、
「いや、そうじゃない」
警部は考える目をし、
「奈良の目撃者は、この文庫本を返さなければならない、と、犯人《ほし》が被害者《がいしや》に話しているのを聞いている」
と、つぶやいてから、こう言い足した。
「しかし、奥さんが気付いていないというのは、変だよね。文庫本は、奥さんに隠すような内容のものではないだろう」
百六十二ページの五行に、同じように、傍線は引かれてあった。だが、�奈良�の文庫本には、新聞の切り抜きが挟まれてはいない。
この違いは、どういう意味を持つのか。
相違は分からないが、犯人が、同一書名の(二冊の)文庫本にタッチしていることは、指紋が証明している。
山下署の刑事課長は、昨日の捜査会議の席上で、
『犯人《ほし》は渦状紋ではないか』
と、指摘したが、�奈良�の文庫本から検出された指紋の中に、まさしく、同一の渦状紋があったのだ。
「これは重要な決め手だ」
と、淡路警部はラーメンを一口食べてから言った。
「奈良の場合も、犯人《ほし》は凶行に際して手袋を使用している。凶器に自分の指紋が残らないよう、万全の注意を払っているのは、横浜のときと同じだけどね」
「文庫本を落としていったのが、横浜の場合も奈良の場合も、計算外のミスだったことになりますか」
「指紋に対する配慮からいけば、そうなりますな。だが、奈良の土産物店の従業員が耳に挟んだところによると、文庫本は、犯人《ほし》から被害者《がいしや》に返されることになっていたわけだ」
「それが、間違いなく、現場に残っていた文庫本ですか」
「他に考えようがないだろう」
「というのは、犯行に際しては痕跡をとどめないよう注意をしても、事前に手にしていた文庫本については、その点の警戒が、欠けていたことになりますか」
「問題の渦状紋には前科《まえ》がない。完全犯罪を意図したつもりでも、犯罪慣れしていない人間の場合は、必ず、どっかから水が漏れてくるものでね」
「この犯人が、それだというのですか」
谷田も、豚骨ラーメンの大きいどんぶりを引き寄せた。
二件とも、被害者の身元はすぐに判明している。これは、捜査本部にとって大きい。
しかし、大森と寺沢がなぜ殺されたのか、
「犯行の動機が、さっぱり分からない」
と、淡路警部はラーメンを食べる箸を休めた。
横浜の事件は「物盗り」でもなければ、「通り魔」でもない。
第一回捜査会議での見通しは、「怨恨」だったはずだ。谷田がそれを口にすると、
「王寺署の捜査本部も、その線で動いているようだがね」
と、警部は口ごもった。
広告代理店『泰山』雑誌部第二企画課長大森裕と、『徳光製靴』総務部長寺沢隆は、
「目下のところ、どこにも接点がない」
というのである。
双方の家族はお互いを知らなかった。
「関連のない二人の被害者が、一人の犯人から、同じように標的にされるってことがあるかい」
「手がかりは、二冊の文庫本ですね」
「だが、これも、いまも言ったように、寺沢隆は文学的なこととは一切無関係だし、大森裕の方も、横浜の文化団体には加入していないんだな」
「何かあるとすれば、二人の生活の場、東京ってことですか」
谷田の口調も独白的なものに変わった。
しばらく、会話が途絶えた。警部と新聞記者は、黙ってラーメンを食べた。
どっちにしろ、今日は日曜日だ。『泰山』あるいは『徳光製靴』など、大森と寺沢の職場を中心に聞き込むのは、明日以降ということになる。
支局長と相談して、取材の段取りだけ今日のうちにつけておくか、と谷田が考えたとき、先にラーメンを食べ終えた警部は、浅黒い顔を上げて、
「一本くれませんかね」
と、たばこを吸う仕ぐさをした。警部は捜査一課内で、禁煙宣言をした直後なのである。
だが、こんなふうにして、谷田と二人だけで食事をしたりすると、食後は決まって、内密に「一本くれませんかね」となる。
禁煙の完全実行が難しいのは、警察官とて同じことだった。殺人担当の警部も、人の子である。
「警部、ぼくは口が固い方ですよ」
谷田は情報入手にひっかけて、にやりと笑ってからピース・ライトと百円ライターをテーブルに載せた。