山下署に近い雑居ビルの、地階にあるカウンター形式の小さいバーだった。
「きみがやってくるのは、分かっていたよ」
昼めしを食ったときに淡路警部とそう話し合ったばかりさ、と、苦笑する谷田は、原稿を送って、ほっと一息入れた矢先だった。
「それにしても、今日のうちに現れるとは、えらく早い御出座《おでま》しだな」
「仕事熱心な編集長に、ハッパをかけられたのですよ。週刊広場の編集長は、日曜日に自宅から指令を発するのが、お好きな性分でしてね」
「捜査本部の言いぐさではないが、まだ、週刊誌に発表する段階ではございません、ってところだな」
各社ともスタートラインについたばかりで、勝負はこれからだ、と、谷田は中ジョッキを飲み干して、水割りに切り替えた。
浦上の方は、最初からウイスキーの水割りである。ボトルは、『毎朝日報』の名前で入っていた。
新聞記者《ぶんや》の出入りが、多い店だった。このときも、谷田に会釈したそれらしき客が二人、カウンターの反対側にいた。
谷田が、これまで報道されなかったし、明日の朝刊にも出ないデータを、無警戒に打ち明けてくれたのは、最初の水割りを空にしてからだった。
それが、すなわち、同じように傍線が引かれた文庫本のことである。
「当分活字にはできないが、オフレコで、各社とも承知しているはずのネタなんだ」
と、谷田は言った。無造作に口に出したのも、各社に行き渡っている情報のせいだった。
�奈良�の文庫本は定かでないが、少なくとも�横浜�の方は、封筒の裏面にただ一字、「桜」と記した差出人によって、大森あてに郵送されてきたものなのである。「桜」から大森に寄贈されたものか、あるいは、大森の所有であったのを返送してきたのか、その点は分からない。
しかし、大森が、その文庫本を手にしてショックに見舞われたのは事実だ。大森が驚愕したという、妻の証言がある以上、その驚愕が、文庫本が郵送されてきてから一週間後の、昨日の殺人に直結していることは間違いあるまい。
「百六十二ページの、冒頭の五行に引かれた傍線ですか」
「傍線自体に意味があるのかどうか、淡路警部などは疑問視しているが、傍線が引かれたことで、それが何かを特定しているという見方はできるだろうな」
「たとえば、その文庫本の、所有者を特定する、といったことですか。なるほど、そういうことかもしれませんね」
浦上は、一通り谷田の話を聞いたところで、二杯の新しい水割りを作った。こうして、二人で飲むときは、黙っていても、後輩の浦上が、先輩の水割りも一緒に作ることになる。
「横浜と奈良か。先輩、これは一種の二面指しですね」
浦上は、水割りのグラスを谷田の前に戻した。二面指しとは、一人が、同時に二人を相手にする対局のことだ。
「しかしねえ」
谷田はグラスに手を伸ばして、首をひねった。
「同じ駒組みで進行する二面指しもないだろう」
「序盤は同じに見えても、中盤に突入する頃から、二局の戦形は別々に変わってくるのではないですか」
「文庫本という小道具は共通していても、隠された殺人動機は異質だってことかい」
「被害者二人の関連次第でしょうが、大森と寺沢の間に、どうしても重複部分がないとすれば、そういうことになるでしょう」
「うそ矢倉《やぐら》みたいなものか」
谷田はカウンターの向こう側にいる他社の記者を意識してか、あえて、将棋用語でつづけた。うそ矢倉というのは、振り飛車と見せて、相居飛車に誘導する序盤作戦である。
こんなふうに、浦上と谷田の間では、将棋用語の飛び交うことが多い。
聞き込みとか推理が順調なときもそうだし、取材が行き詰まったときもそうだ。大学時代からの親しい先輩と後輩は、要するに将棋が大好きなのである。
お互いに、町のクラブでは、四段で通る棋力だった。浦上と谷田の生活にとっては、毎夜のアルコールが欠かせないように、将棋もまた不可欠である。
「先輩、しかし、うそ矢倉のように計画的に角筋をとめてきたのであれば、文庫本は、大森の場合も、寺沢殺しの場合も、意識的に遺留されたってことになりますか」
「犯人《ほし》が意図した陽動作戦の物証なら、そのウラを読まなければならんが、目撃者の方は、これは犯人の策略とは無関係だろう」
「そうかな」
浦上は考えるまなざしになっていた。�目撃者�というものは、一般的には、偶然そこに立ち会った人間のことを言うのである。
偶然であればこそ、目撃証言が重みを持ってくるわけだ。
しかし、フランス山公園と、朝護孫子寺《ちようごそんしじ》と、偶然が二つ重なってくると、
(それをそのまま受けとめてもいいのだろうか)
と、つい疑ってかかるのは、ルポライターの本性である。
浦上は、夕刊紙の記者を経て、フリーのルポライターとして独立したのだが、以来、仕組まれた事件をいくつも経験している。当然その中には、最後までそれと知らずに�目撃者�に仕立てられた、完全なる第三者もいる。
それが、犯人の演出通りの�目撃�であるならば、それこそ、ウラのウラを分析しなければならない。
「そうだね」
谷田は、グラスをカウンターに置いてから言った。
「横浜の場合は、長髪サングラスで黒っぽいコートのその男が、若い恋人同士にぶつかってきたわけだ」
「文庫本は、体当たりしたはずみに落としたのでしょう」
「これは、犯人《ほし》の意思が動いていたと解釈できなくはない。だが、奈良の方はどうだ。寺沢を、石灯籠が立ち並ぶ境内に呼び出した長髪の男は、目撃者に全く気付いていないわけだろ」
「そりゃ、先輩らしからぬ発言ですよ」
浦上も、手にしていた水割りのグラスをカウンターに戻し、キャスターに火をつけた。
「その土産物店の従業員は、縁日でもない限り、午後六時半に店を閉め、寺の参道を通って、帰宅するわけでしょう。犯人《ほし》が、それを事前に知っていたとしたら、どうなりますか」
事前に知っていて、利用したのであるなら、それは立派に、作られた目撃者ではないか。
浦上も、他社の新聞記者を意識した、ぐっと低い声で、
「違いますか」
と、要点を言った。
だが、そうは口にしたものの、それでは、なぜ、作られた�目撃者�が必要なのか、それが判然としない。
真犯人が善意の目撃者を用意するのは、偽装アリバイ工作など、自己の潔白を証明することが大前提となる。
が、今回の場合は、�横浜�も�奈良�も、目撃者の登場が犯人の物証を裏付ける形になっている。目撃者の証言によって、犯人同一人説が、なお一層強化されるという結果を招いているのである。
犯行の過程をアピールするために、�目撃者�を準備する犯人はいないだろう。
「先輩、こだわりは残るけど、こうした偶然もあるってことでしょうかねえ」
浦上の語調が重くなった。
浦上がたばこをもみ消して、新しい水割りを作ると、
「これが、目下のところはっきりしている、被害者お二人の経歴だ」
と、谷田はブレザーの内ポケットから取材帳を取り出して、カウンターの上に置いた。
大森裕は、茨城県|石岡《いしおか》市の出身だった。父親は郵便局長をしており、大森は三人兄弟の三男だ。
高校までは地元で過ごし、大学は仙台を選んでいる。
大学をストレートに卒業して、東京の大手広告代理店『泰山』に就職。趣味は読書。結婚は十年前である。上司の勧めによる見合結婚、と、谷田の取材帳には記されている。
一方、奈良で刺殺された寺沢隆は、東京の高級住宅街、田園調布に生まれ育っている。寺沢の方は二人きょうだいで、年の離れた妹がいる。
小学校から大学まで、私立の名門校に学び、卒業後は父親が経営する『徳光製靴』に入社。営業部を皮切りに、予定のコースで昇進して、総務部長に納ったのが、二年前である。
結婚は十四年前だった。結婚を機に世田谷区北沢に新居を建て、現在も同所に住んでいる。
寺沢も、大森同様見合結婚だった。趣味は映画鑑賞。
「二人の被害者は、生い立ちも、現在の生活も、全然違う」
「強いて共通点を上げるとすれば、同じ東京都に住んでいることと、見合結婚ということですか」
「そんなことが、犯行の動機に関係するとは思えないしね」
谷田は聞き流したが、
「大森のマンションは、三鷹といっても、牟礼だろ。寺沢の家とは、ごく近いのではないかな」
と、ふと思いついたように、口調を改めた。
言われてみれば、そうだった。京王帝都井の頭線を利用すれば、双方の間は三十分かからないかもしれない。
浦上は、駅間の距離が短い井の頭線を思い描いた。
しかし、双方の住所が比較的接近しているといっても、それがいかなる意味を持つのか、持たないのか、それもまた、これだけのデータでは釈然としなかった。