意識的に、行動したせいもあるが、これは一昨夜、犯人が引き返してきたのと同じ時間である。
「男は、真っすぐ電車に乗ったわけですか」
浦上は料金を払って、タクシーを降りるときに訊いた。
「いや。あの男は、すぐそこの中華料理店に入っていったんだよ」
と、運転手は、フロントガラス越しに、駅前の一軒を指差した。
運転手は、もちろんそのことも、王寺署の捜査員に話したという。
浦上は礼を言って、タクシーを離れた。
駅前だが、こぢんまりとした、きれいな店だった。客が十五人も入れば、満席になるだろうか。三十過ぎの夫婦が、二人でやっている中華料理店だった。
カウンターのほかに、テーブルが二つあった。
雨の月曜日のせいか、店は空いている。浦上はカウンターに腰を下ろした。
さすがに、空腹だった。
朝、トースト一枚でマンションを出てきて、新幹線で、缶ビールを飲みながら、サンドイッチを食べただけなのだ。以来、何も口にしていない。
浦上は、五目焼きそばに、ビールを注文した。
本題に入ったのは、コップ一杯のビールを飲んでからである。
「はい、昨日は刑事さんも見えましたよ」
と、こたえる店主は小太りだった。店主は、傍で片付けものをする女房と顔を見合わせ、週刊誌記者の取材に興味をあらわにした。
「ええ、土曜日の夜のいま時分、確かに、黒っぽいコートのえりを立てた、そういう男の人が入ってきましたよ」
と、カウンター越しに浦上を見た。
土曜日とあって、一昨夜は込んでいた。男は、混雑するテーブルでの相席で、他の客から顔を避けるようにして、じっと時刻表に見入っていたという。
「時刻表?」
浦上の表情が動いた。
浦上は、ビールをコップに注ぎながら、尋ねた。
「その男に関して、他に、印象に残っていることはありませんか」
「昨日、刑事さんにもこたえましたけどね、最初は、テレビタレントではないかと思ったのですよ」
小太りな店主は、タクシー運転手と同じことを言った。
「長髪もカッコよかったし、それに何といっても、サングラスが、ぴたり決まっていましたね」
「サングラスですか」
浦上は口元をとがらした。
男は、タクシーを降りてから、サングラスをかけたのか。
タクシーでのサングラス使用は、(運転手が語っていたように)余計な不審を招く恐れがあるだろう。しかし、人込みでは、そんなことを言ってはいられまい。
疑惑を抱かれるよりも、顔を隠すことが先決なのだ。
「これを見てください」
浦上は似顔絵のコピーをカウンターに載せた。
今度ははっきりしたことばが返ってきた。
「昨日、刑事さんにも言いました。これはそっくりですよ。あの男に間違いありません」
「男は、食事をして、すぐに出て行ったのですか」
「結構長い時間、いましたよ。たっぷり一時間はいたと思います」
昨日、同じ質問を刑事から浴びせられているだけに、店主の口調によどみはなかった。
男はいまの浦上と同じ時間、七時四十五分頃に入ってきて、九時少し前に、テーブルを立ったという。
「たっぷり一時間なら、ビールか酒でも飲んでいたわけですね」
「それがそうじゃないんですよ。あの人、アルコールは駄目じゃないですか」
チャーハン、野菜いため、ぎょうざ、ラーメンの順に時間を置いて注文し、ゆっくり食べ終えると、時計を見ながら、立ち去ったという。
アルコール類は受けつけなくとも、相当な健啖家《けんたんか》ではあるだろう。
「男はそんなに次々と食べながらも、ずっと時刻表を開いていたのですか」
「そのようでしたよ」
「男はお店を出てから、JRの駅へ行ったのでしょうね」
「ええ、そうです。そのまま改札口を通って行きましたね」
と、店主は顔を上げた。
その店主の視線を追うようにして振り返ると、ガラス戸越しに駅が見えた。
(犯人はクールな男か)
浦上はビールを飲み干した。五目焼きそばができたところで、紹興酒《しようこうしゆ》に切り替えた。
犯人は、一体どんな神経をしているのだろう?
煮えたぎるような怒りをたたきつけての殺人であったとしても、凶行のあとで、そんなに食欲があるものだろうか。
浴びるようにウイスキーでも飲むというのなら、納得もいく。
アルコールが駄目らしい男は、時刻表を見ながら、次々とチャーハンなどを平らげたというのか。
�横浜�と�奈良�、二件の殺人が予定通り完了したことで、急に空腹を覚えたのだろうか。
それにしても、太い神経の持ち主と言わねばなるまい。
(言動は派手だが、アルコールを飲まない男か)
浦上は焼きそばを食べ、紹興酒を飲みながら、ショルダーバッグから、取材帳を取り出した。
走り書きしたのは、王寺での、犯人の足取りだ。
十八時二十二分 王寺到着 タクシー使用
十八時三十分頃 坂下の電話ボックスから電話をかける
十九時頃 大門池で寺沢隆を刺殺
十九時三十分頃 帰途、坂下の電話ボックスから再び電話をかける
十九時四十五分頃 王寺駅前の中華料理店に入り、時刻表を見ながら食事をする
二十一時前 王寺出発
浦上もまた、一昨夜の犯人と同じように、午後九時前に中華料理店を出た。
浦上が乗車したのは、王寺駅二十時五十六分発の快速電車湊町行きだった。
大阪の天王寺着が、二十一時十四分。
浦上は、奈良には不案内だが、大阪は毎月のように取材にきている。この時間になってホテルを探すとなれば、奈良よりは、やはり大阪ということになる。
浦上は天王寺駅から、もっとも近いホテルにチェックインした。駅至近もいいところで、それは地下鉄とJR駅の真上、ステーションビルで営業しているホテルだった。
窓ガラス越しに、関西本線とか、阪和線の発着を見下ろすことができる客室だった。大阪の天王寺は、和歌山、白浜方面へ向かう阪和線の、始発駅ともなっているのである。
商都の、いわば南の玄関口だ。
奈良の王寺駅周辺とは異なって、こちらの繁華街は奥行きもぐっと深いし、夜も遅い。
浦上はシャワーを浴びると、阿倍野筋へ飲みに出た。
(ポイントは動機か。動機さえ割れれば、犯人の正体は、すぐにあぶり出されてくるだろう)
浦上は知らないスナックで、水割りを五、六杯も重ねただろうか。
大阪の街は、夜ふけて雨が上がった。