「自分の方から、四月二日の所在を明示してきましたね」
「村田が本《ほん》犯人《ぼし》だとすると、やはり、偽アリバイが完備しているってことだろう」
「先輩、二時四十分まで、横浜駅東口の予備校で撮影していたのが事実なら、アリバイは成立しますよ」
浦上は取材帳に書き出してある三つのルートを、谷田に示した。
「しかし、�横浜�の方の犯行は、十分可能だな」
「そうですね、テレビ神奈川の前からタクシーを拾ったという聞き込みがありましたね、あれが村田なら、十二時十五分までに、東田予備校へ入れるでしょう」
「問題は、村田をどうやって�奈良�へ連れて行くかだ」
「仕掛けがあるとすれば、東田予備校ですね」
「新横浜発十四時一分が、タイムリミットか」
と、谷田は浦上のメモをのぞき込んだ。
「予備校の場所にもよりますが、横浜駅周辺から、新横浜駅まで、二十分見ればいいんじゃないですか」
「すると、十三時四十分に予備校を出ればいいわけだな」
「先輩、面白いことになってきましたね。村田は十四時四十分まで、撮影していたというのでしょ」
「ぴたり、一時間の違いか」
「こいつは、一時間錯覚させるトリックですか」
「だれが、どんな具合に証言してくれるのか、ともかく、その予備校へ急ごう」
谷田と浦上は、改札口を通り、桜木町行きホームへの階段を上がった。
浦上はホームの電話で、『週刊広場』編集部へ、二度目の報告電話を入れた。
「そんなわけで、今度は横浜へ逆行です」
と、村田に会った経緯を説明すると、
「さすがは、天下の毎朝さんだね。谷田さんは、スクープを明日の朝刊に、間に合わせるつもりなのじゃないか」
編集長の声も弾んでいた。
一方、谷田も、浦上と並んで、赤電話を取っていた。谷田の通話相手は、『毎朝日報』横浜支局長だった。
「アリバイを破り次第、淡路警部に連絡しますが、村田の指紋を、我社《うち》なりに、手に入れておいた方がいいかもしれませんね。だれか若いのを、東都ペンにでも向かわせますか。出入りのプロダクションなら、村田の所持品の一つや二つ、転がっているんじゃないですか」
所持品から指紋を採取しようという谷田の話し方には、熱気が籠っていた。
自由が丘から横浜までは、鈍行でも三十分足らずの距離だった。
浦上と谷田は、三時半には、『東田予備校』に入っていた。
『東田予備校』は、横浜市内の戸塚と、隣接する藤沢市、町田市にも分校を置く大手で、本校は、横浜駅東口から徒歩五分ほどの所にある雑居ビルの、三階から七階までを占めていた。
三階の事務室で、取材に応じてくれたのは、庶務課長の肩書を持つ、初老の男だった。事務室には、数人の男女職員がいた。
しかし、『東田予備校』は、期待をかなえてはくれなかった。
「そうですよ。四月一日から三日まで、東都ペンを通じて、宣伝パンフレット用の撮影を頼みました。ええ、三日間とも、撮影時間は、十二時十五分から、二時四十分まででした。これは、授業時間に合わせて、こちらから指定したものです」
と、庶務課長は、村田の主張をそのまま裏付けたのだ。
三日間、いずれも、撮影には、この庶務課長が立ち合っていたという。
「お伺いしたいのは、二日の土曜日ですが、その日も、村田カメラマンは二時四十分まで、撮影をしていたのですか」
「数学教室の終了するのが、二時四十分です。間違いなく、生徒さんたちが引き上げるまで、村田さんは第五教室にいましたよ」
庶務課長の返事には、何の揺るぎもなかった。
たまたま腕時計などを見て、そのときの時間を確認した、というような証言とは違うのである。裏付けとなるのが、教室の授業時間では、時間を錯覚させようもないだろう。撮影現場には、庶務課長の他に教師もいたはずだし、何よりも大勢の生徒がいる。
それらの人たちすべてに、錯覚を与えるトリック。
(そんなものは、あるわけがない)
浦上は、谷田の背後で首をひねったが、
(三日間通ってきたそのカメラマンは、本当に村田自身だったのか)
付随的に、新しい疑念が浮かんできた。そう、時間が動かせないのなら、人間を替えるしかあるまい。
すなわち、替え玉を横浜に置いておくという工作だ。
「三日間の撮影には、東都ペンの人も来ていたのですか」
浦上はそうした言い方で、谷田に代わって、疑問を庶務課長に投げかけてみた。
『東都ペン』の代表者は、初日に顔を出したが、二日と三日は、村田が一人でやってきたという。
「しかし」
それは村田に間違いない、と、庶務課長は強い口調で言った。
「村田さんがどうかしたのですか。一体何の取材ですか」
庶務課長が反問してきたのは、当然でもあろう。
浦上が、しかし、反問にはこたえず、村田の容貌を説明して確認を求めると、
「ええ、間違いありませんよ。村田さんに撮影を頼んだのは今度が初めてではありません。村田さんのことは、前からよく知っています」
と、庶務課長は言い、近くにいた女子事務員に、写真の袋を持ってくるよう命じた。
『東田予備校』と印刷された、青い、大きな紙袋の中から、庶務課長は、六つ切りに焼いたカラー写真を取り出した。
海の写真だった。砂浜をバックにして五人の男女が写っており、中央に庶務課長、右端に村田が入っている。
「この人でしょ」
と、庶務課長は右端の村田を指差した。
昨年夏、真鶴《まなづる》合宿を撮影したときのもので、それは、関係者一同による、打ち上げの記念写真だった。
間違いなかった。それは間違いなく、いま別れてきた村田だ。
すると、替え玉でもない、当の村田本人が、二日の午後二時四十分まで、ここに、この『東田予備校』にいたというのか。
十四時四十分というと、浦上が計算する大阪経由のルート、�ひかり349号�は、ノンストップで、熱海辺りを通過している頃だ。
これではどうにもならない。
(見事にアリバイ成立か)
谷田は、そんな目で浦上を見た。
「どうも、お忙しいところを、おじゃましました」
谷田は浦上を促して、予備校の事務室を出ようとしたが、ふっ切れない何かが尾を引いていたのは、当然だ。
谷田は最後に訊いた。
「あの日、村田カメラマンに、いつもと違った素振りは見えなかったですか」
谷田一流の粘り、というよりも、この場合は、未練がましいという感じの方が、強かった。
先輩にも、こんな一面があるのかな、と浦上は思った。
質問された庶務課長は、一瞬考えるようにしたが、
「仕事振りはいつもと同じでしたよ」
と、つぶやいてから、こう言い足した。
「そういえば、もらい物で失礼ですが、と言って、カステラをくれました」
「カステラ?」
「いまも申したように、前から、村田さんには、本校の宣伝パンフレットの写真を撮ってもらっているのですが、あの人が手土産を持ってきたのは初めてですね」
「ほう、包装紙は、どこかデパートのものでしたか」
「いいえ、もらい物をおともだちと分けたということで、ちょうだいしたとき、包装はされていませんでしたな」
「包装紙がなかった? そのカステラ、どうしました?」
と、浦上がことばを挟んだ。
「どうしたって、職員で食べましたよ」
庶務課長は、何を質問するのか、といった顔で浦上を見た。
「いえ、そうじゃないんです。全部食べ終えて、カステラの箱をすでに捨ててしまったのかどうか、伺いたかったもので」
「あのカステラが、どうかしたのですか」
庶務課長はそう言って、傍らの女子事務員を振り返った。
「今日のお昼食《ひる》のあとで、いただいて、箱は空になりました」
女子事務員は、事務室の一隅に目を向けた。片隅には小さい流し場があり、カステラの木箱は流し台の下に置かれてあった。
「すみません。その空き箱、いただけないでしょうか」
と、浦上は言った。
「どうも、妙なことをおっしゃる記者さんたちですな」
庶務課長は、女子事務員にカステラの木箱を持ってこさせた。