県道は暗くなっていた。自動車のヘッドライトが目立つようになっている。
谷田は弘明寺駅まで戻ったところで、駅前の電話ボックスに入った。
電話をかけた先は山下署の捜査本部であり、呼び出した相手は、四日前まで菊名署の捜査本部に詰めていた淡路警部だった。
浦上に対する谷田の返答は、淡路警部との通話を終えてからになった。
「やはりそうだった。新聞発表は伏せたが、捜査本部では、被害者の身内である和彦には、死体に振り撒かれた造花《イミテーシヨン》の桜を、詳しく説明したそうだ」
谷田は電話ボックスを出てくると、厳しい顔付きで言った。
「和彦は、�桜�の関連で、ボックスシートの下から発見された文庫本を、逸速く、犯人の遺留品と見抜いたのに違いない」
「やはり、動機は復讐ですか」
「篠塚みや女史を訪ねたのは、波木和彦に間違いない」
「長髪で、渦状紋の実行犯が、和彦の命を受けた男、ということになりますか」
「カステラの木箱の線で新しく浮かんできた仲佐次郎という、芸能プロダクションで働く男。この仲佐と和彦の両面から追及すれば、渦状紋の男が浮き彫りにされるのは時間の問題だと思うね」
犯人サイドの構図は、恐らくその通りだろう。
問題は殺された二人だ。大森と寺沢の二人が、どうして復讐のターゲットにされたのか、それが分からない。
「しかし、ようく考えて見ると、奇妙な共通点はあるね」
谷田が、考えるように下あごに手をやったのは、小さな改札口を通って、京浜急行の上りホームに立ったときである。
線路越しに、弘明寺の観音堂を見ながら、谷田は言った。
「アーさんを大森、イーさんを寺沢と錯覚させるだけの何かはあるんじゃないかね」
「大森は酒好きだった。寺沢はアルコール類は駄目。ストレス解消法は退社後のドライブ」
「アーさんとイーさんに当て嵌《は》まるね」
「しかも、アーさんがラムゼに落としていったと思われる文庫本には、殺された大森の指紋がばっちりと付着していた」
と、浦上は、谷田に応じるともなく、つぶやき、同一書名の文庫本が何冊登場してくるのかは分からないが、
(少なくとも、港の見える丘公園の血まみれの文庫本は、�桜�から郵送されてきたものに間違いない)
と、自分の中で繰り返していた。
すると、「桜」、イコール篠塚みやから大森の名前を聞き出した若い男、イコール波木和彦、といった図式がはっきりしてくるのではないだろうか。
「先輩、被疑者とは、文字通り疑わしい人間であって、仮に起訴されても、それだけでは有罪じゃありませんよね」
「何を言いたいのかね」
「今回の事件《やま》が、二月の殺人《ころし》を前提とする復讐劇であり、中心人物が和彦であるなら、先輩が考えるように、誤解殺人ということになるでしょう。それが本当に誤解であるなら、二月の奇妙な全裸殺人について、大森と寺沢はシロであった、と、証明することが、推理の出発点となるでしょう」
「誤解に決まっているだろう。大森と寺沢は公的にも私的にも接点を持たないし、ラムゼに現れたような長髪でもない。精一杯譲歩してだよ、眼鏡は変装用ということもあるかもしれないが、ヘアスタイルは違うだろう」
「変装用というなら、長髪のウイッグがありますね」
ふっと浮かんできた思い付きだった。
思い付きは、口に出したことで、重みを持った。
「ウイッグ?」
「鬘《かつら》です」
浦上のことばに力が籠った。
「おい、泰山の企画課長と、徳光製靴の総務部長だよ。何で、この二人が鬘をかぶる必要があるんだ?」
「大森と寺沢が、見込み通りシロであるのか、それとも、殺されたのが誤解ではなかった、すなわちクロであったのか、物証で判断すべきです」
「指紋か。うん、指紋があったな」
谷田が浦上を見詰め直したとき、品川行きの京浜急行が入ってきた。