「確かに、その方が仕事は速い。しかし、大阪行きJAL搭乗客のチェック以来、他社がえらく神経質になっているんだよ。オレは、我社《うち》の支局長の方針通り、当分は潜行すべきだと思う」
「指紋の照合はどうします? これは、淡路警部に手を回すしかないでしょう」
「こんなことになるとは思わなかったけれど、転写指紋は、アーさんもイーさんも、大森も寺沢も、それぞれの捜査本部から入手済みなんだ」
谷田の口調に余裕があるのは、そのためと知れた。
「四種類の指紋が似ているか、そうでないか、ルーペで確認すれば、素人にだって判断できる。どうしても釈然としない問題が生じたら、そのとき初めて、専門家に鑑定を依頼すればいい」
と、谷田は言った。
京浜急行を日ノ出町駅で降り、『毎朝日報』横浜支局へ向かって、夜の雑沓を歩きながらの会話である。
捜査本部から入手した転写指紋は、いずれも県警記者クラブの、キャップの机の中にファイルされているという。
転写指紋は『毎朝日報』に限らず、各社とも入手しているはずだという。
「それにしても、淡路警部は、四日前までは、菊名署の捜査本部に詰めていたわけでしょ。他にも、菊名署から山下署の捜査本部へ配置換えになった刑事がいるかもしれない。双方が同じ指紋であるなら、最初に、この刑事《でか》さんたちが気付いて然るべきですね」
浦上は、飲み屋が並ぶ野毛の通りを左に折れながら言った。
当然な疑問だが、
「そうでもないさ」
谷田は振り向きもしなかった。
「犯意が共通していれば、合同捜査本部ということになる。しかし、これは違うぞ。女を絞殺して全裸にしたのは、いわば通り魔的な犯行だが、山下署と王寺署の刺殺事件は、怨恨の線で捜査を進めているのだから、犯罪としては異質だ」
「内容の違う事件を、対比させる捜査員などいないってことですか」
「当たり前だ。これは盲点ともいえないだろうね。刑事《でか》さんたちは、それほど暇じゃない」
逆な言い方をすれば、そこに谷田と浦上の目がいったのは、細かい取材活動の成果、ということになろう。
二人は、急ぎ足で、桜木町駅前の横断歩道を渡った。
支局に入り、階段を上がって二階の編集室へ行くと、谷田の顔を見て、
「さっきから支局長が捜していましたよ」
と、若手記者が言った。
編集室内は、ごった返している。支局は、一日でもっとも活気のある時間帯だった。
浦上は外部の人間なので遠慮しようとしたが、
「今回は別だよ」
谷田に促されて、一緒に支局長席へ行った。
「ラムゼへ呼び出し電話を入れたら、ちょうど、きみたちが出たところだった」
小太りの支局長は目を通していた原稿を脇にどかすと、二人に傍らのいすを勧めた。
「やはり浦上さんとのご縁は切れないようですな」
と、浦上に会釈してから、
「今後はポケットベルを携帯してもらわなければならんね」
連絡不十分な谷田に苦情を言った。
「しかし支局長、ラムゼを出てから支局に上がるまで、四十分とはかかっていませんよ。そんなに急用ですか」
「これを見たまえ。東京本社からファックスで送ってきた」
支局長は一枚のコピーを、机に載せた。コピーは、新しく登場してきた男、仲佐次郎にかかわる取材結果を、若手記者が報告してきたものだった。
「取材はうまくいったのですか」
「たったいま、詳しい報告電話も入った。とんでもないことになったぞ」
支局長は、コピーを指差した。
「一致したんだよ。仲佐次郎の指紋が、本《ほん》犯人《ぼし》の渦状紋と同一であることが判明した」
「ASプロダクションのパンフレットから、検出されたのですか」
「いや、もっと確かな指紋だ。記者クラブの若手もやるじゃないか」
支局長は、谷田の配下の、敏速な取材をほめた。
若手記者は、さっき自由が丘から途中経過の報告電話を谷田キャップに入れてきたわけだが、その場で仲佐次郎に連絡をとったところ、いまなら空いているというので、東京本社社会部へ出向く前に、港区麻布台の『ASプロダクション』へ寄った。
「あいつ、何と言って、芸能プロダクションへ乗り込んだのですか」
「いまさら、おかしな理由はつけられない。自由が丘で、村田カメラマンに会った直後だからね」
「カステラの木箱を正面から打ち出したわけですね」
「ああ。事情は言えないが、あのカステラをどこから入手したのか。その経路の取材を、口実としたってわけだ」
カステラは、何と、『東都ペン』の代表者から寄贈されたものだという。下請け会社から発注会社担当者への、謝礼だった。
「仲佐は、アルコールは全く駄目の、甘党だそうです」
支局長が、その一言を浦上に向けたのは、浦上の王寺取材に対する返礼の意味を持っていた。犯人は、犯行後一時間余りも中華料理店にいたのに、ビール一杯口にしなかったのである。
「親しくつきあっている東都ペンでは、仲佐はアルコールが駄目なことを承知していたので、カステラを贈ったわけでしょう」
と、支局長は浦上を見て言った。
カステラの木箱は二つだった。仲佐の記憶では、大丸の包装紙だったという。包装紙を開けてみて、細長い木箱が二つと分かったので、一つを、パンフレットが完成したとき、かねて親しくしているカメラマンの村田に、おすそ分けしたというわけである。
『毎朝日報』の若手記者は、『ASプロダクション』で、当然なことに、仲佐と名刺を交換している。
名刺には、最も新しい、仲佐の指紋が付着している。
「すると、問題の渦状紋は、仲佐の名刺から検出されたってことですか」
「この芸能プロダクションには、肩までもある長髪の男が、何人か働いていたそうだ」
「仲佐も長髪だというのですか」
「渦状紋の本《ほん》犯人《ぼし》なら、当然長髪でなければなるまい」
支局長は、都内からかけてきた若手記者の電話の内容を、詳しく、谷田と浦上に伝えた。
妙な形で、登場してきた男だが、犯人《ほし》は、仲佐次郎で、ほとんど決まりではないか。
「支局長、捜査本部へは、いつ、どういう具合に連絡するつもりですか」
谷田は、支局長と浦上の顔を交互に見て言った。声には、張りつめた緊張感がにじんでいる。
「もう一日待ってみないか」
支局長は一息入れ、一言ずつ考えるような口調になった。
「絶対的なスクープとするためには、まだまだ済まさなければならない手続きがあるだろう。捜査本部へ渡すのは、完全原稿を書ける状態にしてからにしたいね」
指紋の一致は、確かに大きいニュースだ。明日の朝刊で、他社をぐっと引き離すことができるだろう。
しかし、それだけでは、パーフェクトな解決とはならない。
支局長席の周辺に、一瞬、複雑な沈黙が生じた。
浦上は沈黙の中で取材帳を開き、ボールペンを走らせていた。
(1) 仲佐次郎と波木和彦はどういう関係にあるのか。仲佐はいかなる過程で殺人を請け負ったのか。
(2) 仲佐が殺人の実行犯であることの証明。すなわち、仲佐は、四月二日の十一時三十分頃と、十九時頃のアリバイを持っているのか。
�横浜�と�奈良�、二件の殺人犯は同一人なので、午前か午後、どちらか一方のアリバイが成立すれば、仲佐の容疑は解消されてしまう。
(3) 大森裕と寺沢隆は、果たして、間違って殺されたのか。誤殺であるにしても、和彦(あるいは仲佐)は、どこから大森と寺沢のつながりを洗い出してきたのか。
(4) 復讐側(和彦)のミスで、大森と寺沢をターゲットにしてしまったのだとしたら、全裸殺人の真犯人、「アーさん」と「イーさん」は、どこに潜んでいるのか。
順序不同のままに、ざっと書き出しても、これだけの問題があった。
「波木和彦と仲佐次郎の二人に、じかに当たるしかないが、問題は取材の口実だね。妙な結果になって逃亡でもされたら、それこそ一大事だ」
支局長が両腕を組むと、谷田は支局長席の電話を取って、県警記者クラブにかけた。
「オレはこのまま、待っている。いいか、ルーペを使って、四人の指紋をばっちり見比べてくれ」
谷田は受話器を握り締め、クラブに居合わせた部下に命じた。
新しい緊張が、谷田、支局長、浦上、三人の顔に広がった。
ぴりぴりとした緊張の沈黙は、この上なく長いものに感じられた。だが、実際には三分とかからなかっただろう。
「何?」
返事が受話器を伝わってきたとき、谷田の横顔に新しい表情が浮かんだ。新しい表情は、そのまま谷田の横顔に刻み込まれた。
「間違いないんだな! 間違いなく、四月と二月の指紋が一つに重なり合ったのだな!」
ぐっと受話器を握り締め、怒鳴りつけるような声にかわっている。
二月の指紋の一つ(変体紋)は大森と合致し、一つ(弓状紋)は寺沢のものだというのだ。
浦上も口元を引き締めた。
半ば予想していたことではある。
(ひょっとしたら)
と、考えが一点に集中したからこそ、シロかクロか、物証(指紋)で判断すべきだと提案した浦上であったが、思わず、口の中が乾くのを感じていた。何の紆余曲折もなく、抽出された結論が、当然のようでもあり、意外のようでも、あった。
「殺人《ころし》の動機は、理由もなく実姉を殺害したアーさんとイーさんへの復讐。これで決まりだな」
と、つぶやく支局長の吐息も、熱を持っていた。
「アーさんが大森、イーさんが寺沢なら、浦上さんが指摘されたように、二人はウイッグを使用していたことになりますな」
と、支局長がつづけると、
「指紋だけじゃない。血液型もどうやら一致するようです」
谷田は受話器を戻してから言った。
刺殺された大森と寺沢の血液型は、もちろんはっきりと分かっている。大森はO型、寺沢はA型である。
一方、「アーさん」と「イーさん」に関しては、モーテル『菊水』とスナック『ラムゼ』から、指紋同様血液型も採取している。これは、たばこの吸い殻に付着した唾液からの検出である。
指紋と同じことで、どちらがどちらと特定はできないが、記者会見で発表されたのが、O型とA型だから、これは、大森と寺沢の血液型と受けとめるのが自然だろう。
「何とも信じられないような、展開になってきたな」
支局長は、もう一度、両腕を組み直した。
支局長のつぶやきが、谷田と、そして浦上の心境を代弁していた。
前髪を乱したロングヘアのウイッグと、眼鏡。これはもう変装目的と見て、間違いあるまい。
一流会社の課長と部長は、何ゆえ変装してバーやスナックに出入りしていたのか。
まさか、当初から、全裸殺人が狙いだったわけではあるまい。
二人は、どこで、どのような接点を持っていたのだろう?