「どうして、ぼくがそのような質問を受けなければならないのですか」
仲佐は、二十六歳という年齢《とし》の割りには落ち着いている。
二日に発生した�横浜�と�奈良�、二件の殺人事件は、全く自分には関係がない、という態度で一貫していた。新宿の喫茶店で、谷田や浦上に対したときと同じようにである。
「昼間、別の用件でお会いした毎朝の記者さんも、その事件を話していました。ぼくも新聞やテレビのニュースで承知はしています。でも何で、わざわざ刑事さんがお見えになったりしたのですか」
「お姉さんが殺された事件に、関連していましてな」
「姉の事件?」
「オフィスでは、細かい話もできません。ちょっと出られませんか」
中山部長刑事が語尾に含みを持たせた誘い方をすると、
「課長の許可を取ってきます」
仲佐は奥へ立って行き、すぐに戻ってきた。
「会議が六時半から始まります。それまでなら」
と、仲佐は言った。
会議など関係ない。どうせ最後は横浜へ行ってもらうのだ。
中山部長刑事と堀刑事は、目配せをして立ち上がった。
舗道を挟んで、『ASプロダクション』と斜めに向かい合う場所に、小さい喫茶店があった。壁一面に蔦が絡まる喫茶店だった。蔦は若い葉をつけている。
夕方の喫茶店は客足がなかった。
三人は窓際に座った。
話のつづきは、コーヒーがきてからになった。
中山部長刑事は、コーヒーにちょっと口をつけると、回り道をせずに切り出した。
「港の見える丘公園で殺された大森裕、信貴山で刺殺された寺沢隆。この二人は、二月十二日の深夜、お姉さんを新横浜駅近くのモーテルへ連れ込んで、絞殺した犯人と断定されました」
説明を聞く仲佐は、下を向いてコーヒーを飲んでいる。顔を下げているので表情は分からない。しかし、肩までもある長髪が、気のせいか、かすかに揺れたようだった。
「菊名署の捜査本部は縮小されたと聞いています。縮小された後で、その二人が犯人と判明したのですか」
仲佐が顔を上げたのは、しばらくの間を置いてからだった。
「しかし、どうしてぼくを訪ねてこられたのですか。いままで、警察からの連絡は、すべて浦和に住む兄が受けていたはずです。そうか、兄が大阪へ出張中なので、それで、ぼくの方へお見えになったのですね。長いこと待ってもらわなくとも、電話でよろしかったのに」
と、つづける仲佐は、まだ落ち着きを失っていない。
だが、口数が多くなってきた。問われもしないことを話題にするのは、余裕がなくなってきた証拠だ。ベテラン部長刑事は、それを体験的に承知している。第一、姉を襲った犯人が殺されたと聞かされても驚きもしない。これはなぜか。
そこで、機を見るようにして、一番最初の質問を繰り返すと、
「ぼくが、二日の日にどこで何をしていたかというご質問は、ぼくが疑われているってことですか」
仲佐は、やや気色をそこねた顔付きになった。
「姉を襲った犯人が殺されたからといって、なぜ、被害者の肉親が疑いの目で見られなければならんのですか」
「その辺りを詳しく話し合うために、どうですかな、これから横浜までご一緒願えませんか」
「横浜? いまも言ったように、間もなく会議が始まります。議題の中心は、今日のロケハンについてなので、ぼくが欠席するわけにはいきません」
「お姉さんを殺害した犯人が判明して、二ヵ月振りで事件が解決した。あなたにとっては、こっちの方も大事ではないですかな」
「姉を拉致した犯人が生きているのならともかく、二人とも殺されてしまったわけでしょう。そう急ぐことはないじゃありませんか」
仲佐はコーヒーカップに手を伸ばした。コーヒーは、もう残っていなかった。
仲佐は所在ないように、空のカップをテーブルに戻した。
中山部長刑事は、じっと仲佐の仕ぐさを見ていた。
仲佐は、谷田と浦上に対しては、積極的に、二日の行動を話している。
『事前に、アリバイを強調したのに違いありません』
と、谷田は淡路警部への連絡の中で述べている。事前とは、捜査本部の取り調べを受ける前、という意味だ。
中山部長刑事は、もちろん、谷田と浦上に向けられた仲佐の発言内容を承知している。
新聞記者に対しては、誘いに乗ったような形で口を開いたのに、刑事の前で固い顔をしているのはなぜか。刑事に対して生半可な説明は通じないと、警戒しているのだろうか。
指紋という不動の物証に加えて、足取りの推定もついているのである。『新潟ターミナルホテル』を起点として、�横浜��奈良�と二つの殺人を経由し、ふたたび新潟へ引き返してくる鉄道ルートは、浦上が明確に書き出している。
『新潟ターミナルホテル』に二泊した仲佐は、二日の土曜日は、亡姉を偲んで、新潟市内を彷徨していたと主張している。
しかし、百万言を弄《ろう》して故人の追憶を語ろうとも、確かな裏付けが提示されない限り、刑事にとって、それは一片の価値も持たない。
仲佐も、その辺りに気付いているのだろう。
(よし、菊名署へ引っ張って行くぞ)
中山部長刑事は、そんな目で堀刑事を見た。
「事件の関係者、すなわち、二月と四月、双方の事件周辺にいる人は、だれによらず、四月二日の行動を報告書に控えることになっています。ご協力ください」
と、中山部長刑事が促すと、
「分かりました」
仲佐は最初の落ち着きを取り戻したように、うなずいた。
「いま、ここで申し上げればいいでしょう。話を聞いてもらって、得心がいかなければ、捜査本部でも、どこへでも行ってご協力しましょう。いずれにしても、姉の事件が解決したのであれば、兄が大阪から戻り次第、二人そろってごあいさつに伺います。しかし、今日は勘弁してください。今夜の会議は、うちのプロダクションにとって、極めて大事な打ち合わせなのです」
と、仲佐は語り始めた。
中山部長刑事は、話の弾みだ、聞くだけ聞いてやろうといった面持ちで、若い堀刑事にメモを取るように命じた。
裏付けなど出てこないに決まっている。メモを取るといっても形式的なことに過ぎない。
中山部長刑事はそう思った。
「二日の朝は寝坊しました」
と、仲佐は言った。
最初から朝寝するつもりなので、投宿した512号室のドアには「DON'T DISTURB」の札を下げて置いたという。
部屋は、一日、二日と二泊の予約になっている。昼間も気ままに眠ったりするかもしれないということで、二日の掃除は、チェックインのときに断わったという。
(ルームキーをフロントに返さず、自由に出入りするための伏線だな)
部長刑事は胸の奥でつぶやいていた。
「寝坊して、目覚めたのは何時頃でしたか」
「はっきり覚えていませんが、十時は過ぎていましたね。ホテルを出て、万代橋の方へぶらぶら歩いて行ったのが、十一時頃でしたから」
それが事実なら、仲佐は、もちろん犯人とは成り得ない。午前十一時に信濃川の流れを眺めていた人間が、それから三十分後に横浜の港を見ることなどできるわけがない。
仲佐は上大川前通りを歩き、丸大デパートの食堂で、朝昼兼用の食事を済ませた、と、五日前を思い起こすようにして、言った。
食事の後は、(谷田と浦上に話したように)信濃川の河口に近い緑町などを歩いていたというのである。故人の想い出をたどっての彷徨だった。
「途中、だれか知り合いの方に会いましたか」
「いいえ」
仲佐は首を振った。刑事の見込み通りだった。これでは、新潟にいたことにはならない。
デパートの食堂にしても、同様だろう。人の出入りが多い店で、食事を済ませたことにしたのは、小さい店では立ち寄らなかったことの証明が出てしまう。恐らくそれを避ける計算だろうが、いなかった証言も出ない代わりに、仲佐にとってもっとも必要な、いたことの裏付けも得られないに違いない。
その通りだった。
デパートの食堂でも、知人には擦れ違わなかったし、記憶に残るような、目立ったできごともなかった。
「そうですね、食べたのは天ぷらそばでした。別にレシートなんかとってありません」
と、仲佐はこたえた。
要するに、アリバイはないということだ。
「ホテルには、何時に戻りましたか」
部長刑事は、それでも話の締め括りとして訊いた。
「何時何分と正確には覚えていませんが、夕方、五時過ぎだったのは確かです」
「五時過ぎ?」
そんなことはない。
午後五時、すなわち十七時過ぎといえば、(浦上のチェック(1)大阪経由を採用すると)新大阪駅から地下鉄に乗って、天王寺へ向かっている頃だ。(3)京都経由なら、奈良線に揺られて、奈良駅に近付いている頃である。
このルートを逸すると、信貴山の殺人現場に立つことはできない。逆に言えば、十七時過ぎに、仲佐が『新潟ターミナルホテル』へ姿を見せられるわけがないのだ。
「夕方五時過ぎに帰って、フロントでルームキーを受け取ったわけですか」
「いえ、部屋のかぎは持って出ました。あてのない散歩でしたので、しょっちゅう出入りすることになりそうでしたし、あのホテルのキーホルダーは、駅のロッカーのものと同じように小さくて、軽くズボンのポケットに入りましたので」
と、仲佐はこたえた。
これまた、予想通りではないか。
仲佐は、十七時過ぎに、フロントに立ち寄っていない。すなわち、ホテルに戻った姿を、ホテル従業員に目撃されていない、ということになるだろう。
512号室のドアに提げた一枚の札、「DON'T DISTURB」を、アリバイ工作の隠れミノにするつもりか。
「すると仲佐さん、結局、あなたが新潟にいた証明は、何もないことになりますな。証明は、あなたの言葉だけだ」
中山部長刑事の口元には、皮肉な笑いが浮かんできた。
こうしたやりとりで、いつまでも時間を食っているわけにはいかない。それを問い質すのは、菊名署で待機している淡路警部と、奈良県警から出張中の部長刑事の役目なのだ。
仲佐の身柄を、一刻も早く、淡路警部と奈良の部長刑事に渡したい。
そう考えると、口元の、皮肉な笑いが消えた。すると仲佐は、そんな中山部長刑事の内面を見抜いたかのように言った。
「ぼくが、あの日新潟を離れていないことは、ホテル側が証明してくれるはずです」
「あなたはキーも預けず、フロントを素通りしている。あそこは全国的なチェーンで、新潟でもトップクラスのホテルでしょ。そうした規模の大きい都市型のホテルが、宿泊者の出入りを、いちいち覚えていると思いますか」
「ぼく、夕食はホテルでとりました」
「ほう」
中山部長刑事は、話に乗らなかった。ホテル内のレストランも広いだろう。広ければ、ウエイトレスに顔を覚えられる率も少ない。そして料金は、もちろんルームキーを見せての伝票にサインではなく、キャッシュで支払ったのに違いない。
そこにいない人間が、サインなど残せるわけはないのだから。
いなかったことの証明が出てこないことを、いたことの証明にしようとしているのである。デパートの食堂を口実にしたのと同じようにだ。
しかし、中山部長刑事の推理は、一瞬にして崩れた。
仲佐は、新しい質問に対して、こうこたえたのだ。
「ぼくが食事をしたのは、ホテル内のレストランではありませんでした。ルームサービスを頼みました」
「ルームサービス?」
「法要の後で、殺された姉のことばかり考えて、精神的に参っていました。疲れていたし、だれにも会いたくなかったので、ルームサービスを奮発しました。ええ、午後六時半に届けてくれるよう、予約しました」
「ルームサービスのディナーは、予約した時間に届いたわけですか」
「そうですよ」
こたえは、平然としていた。
午後六時半といえば、犯人は、関西本線の王寺駅に到着していなければならない。改札口を出て、すでに、駅前のタクシーに乗っている時間だ。
仲佐は本当に、その時刻、『新潟ターミナルホテル』512号室にいたのか。
「あなたは、食事を届けにきたホテルの従業員と言葉を交わしましたか」
「当たり前でしょう」
仲佐は長髪をかき上げた。むっとした口調になっている。
仲佐は、それでも自分を押さえるようにし、更に、こう言い足した。
「そうそう、夕食を食べているとき、電話が入りました」
「外線の電話ですか」
「そうです、交換手を経由した電話です」
「電話は市外からでしたか」
「市外と言えば、市外ですが、北蒲原郡の水原《すいばら》町に住む旧友からでした。姉の納骨でぼくが帰郷したことを知り、声だけでも聞きたいとかけてきてくれたのです」
旧友は、仲佐が『新潟ターミナルホテル』に投宿していることを、仲佐の戸籍上の養子先である伯父の家に問い合わせて、知ったという話だった。
思いもかけない、証人が出てきたものだ。ルームサービスの係と、旧友の電話をつないだ交換手が、仲佐が512号室にいたことを証明するというのか。
短い沈黙がきた。
中山部長刑事は、沈黙を破って言った。
「この際だから、ホテル側の確認を取らせていただきますよ」
「電話番号なら控えてあります」
仲佐は、金ボタンが付いた濃紺ブレザーの内ポケットから、薄い手帳を取り出した。
中山部長刑事は『新潟ターミナルホテル』のナンバーを控えると、
「失礼」
テーブルを立った。
この種の問い合わせは、若手刑事に担当させるのが普通だが、いまはその気にならなかった。それに、仲佐本人の目の前で、問い合わせる内容を、堀刑事に指示するわけにもいかない。
ピンク電話は、入口のドアの陰にあった。しかし、小さい喫茶店なので、ここからかけたのでは、テーブルの仲佐に筒抜けだ。
中山部長刑事は、宵闇の町へ出た。
飯倉小学校の方向へ、少し行くと電話ボックスがあった。