男は、人気のない沼のほとりで、少女に対しては大胆な行動をとっているくせに、実は、小心な性格だった。
顔に浮かべた、歪んだ笑みが、(少女の態度同様)次第に強張《こわば》ってくるのが、自分に分かった。
(オレとこうしていることを、おふくろに打ち明けるだと?)
まさか、と、男は自分の中でつぶやき、
(いや、この子は、実際にそうした行動に出るかもしれない)
と、考えると、それなりに保っていたはずの落ち着きが、信じられないほどの速さで、遠のいていった。
少女がそれを口にしたのが、初めてではなかったせいもあろうか。
『いつまでも、あたしにこんなことするなら、警察に駆け込んでやるわ。もちろん、ママにだって言いつけてやるから!』
と、少女が泣き叫んだのは、二ヵ月前の夜である。
そのときも、
(本気か)
男は一瞬慌てた。
しかし、その後、少女は、今夜を含めて四回も、男の誘いに従って、暗い山道へ足を向けたのだ。
(何を言ってやがる。どうせ、高校生らしい気まぐれだろう)
男は、少女が泣き叫んだことの意味を、勝手に決めつけて、
(本心は違うんだ。おふくろと同じように、オレに抱いてもらいたくて仕様がないんだ)
と、少女への愛撫を繰り返してきた。
だが、いまは違う。
いまの少女の「拒否」は、二ヵ月前とは比較にならないほどの強さを、男に感じさせる。
何かに戸惑いながら受ける愛撫が、どうにも堪え難くなったという印象なのである。
(事情はよく分からんが、こいつは本ものかもしれないぞ)
男は、少女の肌に力を抜いた掌を置いたまま考えた。
(冗談じゃないぞ。いまおふくろさんに打ち明けられたら、何も彼もが、滅茶滅茶になってしまう)
男は、自らを落ち着かせるように、大きく、肩で呼吸《いき》をした。
少女は、徐々に、全身を堅くしている。
少女の肌に置いた掌の感触を通じて、少女の変化が、微妙に、男に伝わってくる。
男の名前は、松岡周三といった。
五十二歳である。
三年前に北海道の旭川から、東京へ流れてきて、その後間もなく、神奈川県の横須賀に移った。
現在は京浜急行・横須賀中央駅近くの家具店に勤め、配送員として働いている。
少女は野口美知子。
父親は不動産屋だった。
一時は羽振りがよかったけれど、美知子が小学生だったころ、商売仲間と遊びに行った先の東南アジアで、交通事故に遇って、あっけなく世を去った。
以来、美知子は、母親の千代との二人暮らしをつづけている。
母子家庭とはいえ、生活は貧しくなかった。
死んだ父親が、何軒かのアパートを、都内に遺して置いてくれたためである。
そうしたアパートの一軒が、大田区大森北にあった。
京浜急行・大森海岸駅の近くだ。
母と子は父親が遺したアパートに住み、美知子は世田谷区内にある定時制高校に通った。
母の千代は、一人娘が夜の高校へ通うことに反対だったが、美知子がそれを押し切ったのは、多分に、千代のほうに原因があった。
『どこへ進学しようと、それは、あたしに選ぶ権利があると思うわ』
と、美知子は反抗の姿勢を見せたのだが、母親の千代のほうの原因というのが、「松岡周三」にほかならなかった。
美知子は「おじさん」と呼んでいるけれども、美知子と松岡の間に、姻戚関係はなかった。
もちろん、血縁であるわけもなかったが、松岡と美知子は、義理の父と娘に似た間柄に置かれていた。
松岡と千代が、深い関係に陥っていたためである。
すべてに敏感な思春期の少女の前で、男と女の関係は、いつまでも隠し通せるものではなかった。
現在では、松岡と千代の結び付きは、公然の秘密、ということになっている。
千代は四十二歳。
しかし、松岡は、千代の肉体だけが目的なのではなかった。
未亡人の千代は、男性を知り尽くした女の魅力を備えている。
だが、女高生の、文字どおりぴちぴちした若さのほうが、松岡の好みに合っているのである。
松岡は、千代の肉体を自由にすることで、千代の資産に、狙いを定めたのだった。
(いま千代を怒らせたら、オレは一生、家具屋の配送員だ)
松岡は舌打ちをし、不安気なまなざしを、月明かりの陰になっている沼に向ける。
沼は、飽くまでも暗い。
何の「表情」も感じさせない、暗い沼は、松岡の半生を反映しているようでもあった。
母親の目を忍んでその一人娘を口説いたことの反省など、松岡が持ち合わせるわけもなかった。
松岡は、こんなふうに考える。
(美知子も、勝手過ぎる。オレに抱かれるのが嫌なら、今夜は、最初から断わればよかったじゃないか)
スカートの下から手を抜こうとしながら、小さい逡巡が、松岡を見舞っていた。
口先ではああ言ったものの、その一方では、美知子は、やはりオレの愛撫を待っているのではないか。
(いや)
あれは、美知子が自分を納得させるための口実に過ぎないのであって、実際には、少女なりに燃え上がる情欲を、このままではどうにもできなくなったのかもしれない。
松岡の脳裏を、勝手な解釈が過《よぎ》り、美知子のやわ肌に置いた掌が、じっとりと汗ばんできた。
「いつものように、時間をかけて、オレが楽しませてやる」
松岡はふいに語調を代えると、ふたたび、指先に力を込める。
しかし、美知子の嫌悪感は、上辺だけのものではなかったのである。
初めはいつものように、セックスに対する好奇心が先に立って、横須賀のはずれにあるこの沼へついてきたのであったが、松岡から愛技を加えられているうちに、
(ママもこうして、同じことをされているのか)
そう考えると、どうにもいたたまれなくなってきた。
松岡が、もう一度、女性の敏感な部分を攻めようとしたとき、美知子は、自分でもおやっと思うほどの力で、男の指先を払いのけていた。
「今夜こそ、本当に、警察に電話してやるから」
「一一〇番をかけるのか。一一〇番で何を言うつもりだい」
松岡は、一語ずつ区切るような話し方になった。
「断わっておくけどな、オレとおまえは、もう三ヵ月も、こうして愛し合ってきたんだぜ。いまさら警察に泣き込んだからって、オレが何の罪になるというんだ? オレは、おまえを脅《おど》したわけでもない」
「おじさんが、何の目的で、ママやあたしに近づいているのか、あたし、知ってるのよ!」
美知子は、松岡をはねつけるように口走った。
深い考えはなかったようだ。
その場のはずみで、口を衝いたことば、ともいえようか。
だが、隠れた目的を持ち、しかも神経が太いほうでない松岡にとって、美知子の一言が、不安を運んでくるのに時間はかからなかった。
不安は複雑に揺れている。
「知っているって?」
松岡は顔を上げた。
「言ってみろ。おまえが、何を知っているというんだ!」
月明かりに見るその横顔は、急に、別人のように、くろずんでいる。
根が小心なだけに、にじみ出てくる焦燥を押さえ切れないのだろう。
松岡の内面に、悪魔のささやきが聞こえてきたのは、それから間もなくである。
(やれ!)
黒いささやきは、そんなふうに聞こえた。