都内の夜は、浦賀水道を見下ろす丘の上とは違って、蒸し暑かった。
まして、賃貸マンションとか、アパートの建ち並ぶ一角は、なおさらである。
風の動きはほとんど感じられない。
野口千代は、管理人室を兼ねる玄関脇の部屋にいた。
千代はテレビの歌謡番組を見ながら、ビールを飲んでいた。
アルコール類が、特に好きというわけではなかった。
ビールの酔いを覚えたのは、松岡を知るようになってからであり、松岡を迎える夜は、いつともなくビールを用意する習慣が身についていた。
もちろん、ビールは、松岡が現われてから、一緒にあけるのが常だった。
この夜は、松岡の来訪が約束よりも遅いために、千代は一人で飲み始めた。
千代はランジェリー姿で、だらしなく、ひざを崩している。
しかし、汚れた雰囲気はなかった。
夫を失った当座は、十歳も老け込んだ表情を見せていたが、アパート経営も順調であり、次第に、平常の落ち着きといったものを取り戻したようである。
特に、松岡と深い関係を持つようになってからというものは、化粧も目立って派手になってきた。
四十二歳という実際の年齢よりも、ずっと若く感じられることがあった。
千代は、娘の美知子とは違って、小柄だった。
色白で小柄であるために、なおのこと、若い印象を与えるのかもしれない。
とても、高校生の娘を持つ母親とは思えないほどだった。
(未亡人だからといって、ひっそり暮らす必要はないんだわ。親戚が何を言おうと、いまは時代が違う)
千代が、自分の中で繰り返したのは、松岡から言い寄られたときだった。
一緒に、カラオケスナックへ出かけるようになったとき、それを考えた。
だが、このごろでは、そうした自己弁護も必要ではなくなっている。
「急な用事でもできたのかしら」
千代はコップのビールをあけると、だれかに話しかけるようにつぶやいて、掛け時計を見た。
十一時に近い。
松岡は泊まっていくつもりだから、それで、ゆっくりしているのだろうか。
それにしても、遅い。
「電話ぐらい寄越せばいいのに」
千代は同じ口調でつぶやき、二本目のビールをあけた。
クーラーを強風にしても、容易に、蒸し暑さは遠のかない。
しかし、ビールの心地よい酔いが全身に回り、それが、ある種の疼《うず》きとなって、背筋を走るのを、千代は感じていた。
松岡が約束の時間に姿を見せないことで、余計に高まってくる欲情があった。
すでに、千代の体は、松岡に慣らされていたというべきだろうか。
松岡の過去は詳しく聞かされていないし、その風貌も職業も、決して魅力があるとは言えないけれども、「男」の評価が外観で左右できないことを、千代は、松岡によって知った。
『横須賀の汐入町に、バーの売物が出ている。こいつを買って、一緒にスナックを経営しないか』
と、松岡が持ちかけてきたのは、七月中旬だった。
権利金は千五百万円、改装費などを含めると、二千万円の資金が必要だろう。
松岡が、出資の全額をあてにしていることで、最初はためらいが先に立った。
しかし、半月、一ヵ月と過ぎるうちに、アパートの一軒を抵当にして、信用金庫から金を借りてもいい、という具合に、千代の気持ちが傾き始めた。
松岡の執拗な愛撫が、千代にそれを納得させたかたちでもあった。
夫と死別して七年。
千代は、松岡という五十二歳の男によって、初めて、女の本当の歓びを教えられたのだ、と、つぶやくときがある。
(今夜は、スナックを始めることを約束して、あの人を喜ばせてやろう)
千代は、自分に言い聞かせる。
それは、完全に、セックスの欲望と一本に結ばれたつぶやきだった。
所在ないようにテレビを見ながら、ビールを飲む千代は、しかし、そうした自分を隠そうとしなかった。
(あの人の過去が何であれ、あたしは、もうあの人から離れられやしない)
ビールの酔いが、千代の思考をさらに大胆なものに変える。
男の足音を、ひそかに待っているこんな一刻には、苛立たしさと期待とが交じり合う、複雑な感情があった。
今夜、美知子が、大磯の親友宅に外泊することは、前から決まっていた。
中学生当時のクラスメートの家だった。
かつて近所に住んでいたころは、親類同士のように、親しい交際をしていた家族であった。
その一家が、大磯に家を建てて移り住んでからというもの、美知子は、少なくとも月に一回は、泊まりがけで、出かけるようになっている。
『たまには、あたしのいないほうが、ママものんびりできるでしょ』
美知子は、少女らしからぬ笑みを残して、家を後にすることもあった。
松岡との仲が、表面に出て、母と娘の間に、小さい争いが生じるようになっていた。
外泊する高校生の娘を、たしなめることができないばかりか、むしろ美知子の留守を願い、松岡と「水入らず」で過ごす夜を待ち望む千代は、すでに、母親として失格であったというべきだろうか。
しかし、千代には考えられないことであった。
美知子が、大磯の友人宅へ足を向けるとき、ひそかに横須賀へ寄り道をして、松岡に抱かれていたなんて、千代には考えられるわけもなかった。
事実は、母親の想像を超えていた。
それは、相手構わぬ松岡の欲望と、母親の浮気に対する美知子の反抗心とが、奇妙なかたちで結び付いた関係であったといえる。
そして、その「関係」には、いま、はっきりと一つの決着がつけられていたのだが、それもまた、千代の与り知らぬことだった。
ランジェリーから、白い肌をのぞかせた千代は、松岡のことだけを思いながら、ビールを飲んだ。