松岡も酔っていた。
横須賀中央駅から京浜急行を利用して、大森海岸駅で降りた松岡は、まっすぐ、千代のアパートへ行く気にはなれなかった。
松岡は大森海岸駅付近の安酒場で、コップ酒を重ねた。
月明かりの沼のほとりでの痕跡をとどめるように、ズボンには赤土が付着しており、松岡のやせた頬は蒼ざめている。
全身にアルコールが回っても、どうしても酔えないものが、松岡の脳裏に広がっている。
(オレは、ついに殺《や》ってしまった)
だが、ああするより仕方がなかったのだとつぶやきながら、松岡は安酒場の丸いすから腰を上げた。
支払いをするとき、うっかり、左のポケットのサイフを取り出して、
(いけねえ!)
松岡は慌てた。
それは一見して少女物と分かる、美知子の赤いサイフだったのである。
松岡はふらふらする歩調で、人気の絶えた商店街を歩き、入り組んだ路地に折れた。
松岡は、八月の夜の蒸し暑さを、感じなかった。
松岡は酒臭い息を吐きながら、
(まったく、若い女の子ってえのは分からんな)
と、小柄な背中を丸めるようにして、つぶやく。
しかし、ああするより仕方のなかったことだろうか。
つい三時間前の、沼の周辺のできごとを、松岡はいま、筋道立って思い返すことができない。
生来の小心さが裏返しされたように、前後の見境もなく、美知子の首を締め上げた自分を覚えている。
だが、それから後の記憶は、すべて、月光のベールに覆われてしまっている。
『さあ言え! おまえが何を知っているというんだ!』
美知子の細い首を締め上げながら、押し殺した声で叫んだことも、やがて、ぐったりとした美知子から所持品を奪い、衣服を脱がせ、その生死も確かめずに沼に投げ込んできたことも、松岡の記憶の中では統一がなかった。
ただ、松岡の内面にはっきり残っているのは、沼に沈んだ美知子の全裸が、月光の下で、不気味なほどに白く感じられたという一事だけである。
(身元がばれる手がかりはないし、オレが殺《や》ったという証拠もない)
落ち着け、落ち着くんだ、と、奇妙な酔いの中で松岡はつぶやく。
無意識のうちにサイフはズボンのポケットに入れたが、その他のものは、すべて、途中の林の中へ捨ててきたし、目撃者も、一人もいないはずである。
沼のできごとは忘れるのだ。
千代に出資させて自分のものとする、新しいスナックのことだけを考えればいい。
松岡は自分の中で繰り返しながら、路地を歩いて行く。
美知子の若い体には未練があったけれど、女の代わりはいくらでもいる。
いまは、千代から二千万円を引き出すことが先決なのだ。
そのために、美知子の生命を絶つ結果となったのであるが、松岡がこれほどの小心でなかったら、別の解決方法もあったはずだ。
しかし、すでに五十代であり、今後の生活の保証を持たない松岡にしてみれば、時間をかけて、美知子を説得するだけの余裕がなかった。
松岡の半生は、あまりにも、乱れ過ぎていた。
生まれは、新潟の農家の三男であったが、地元の中学校を卒業すると、遠縁を頼って北海道に渡った。
牧場に住み込んだのが、皮切りだった。
一定の職業に長続きがしなかったのは、多分に、松岡の性格に原因があったようである。
松岡は富良野の牧場を振り出しに、十数種の職業を転々とした。
その間、酒と女におぼれることを覚えた松岡は、一度も、正式の結婚をしなかった。
女房のようなかたちで同棲した女は、二人ほどいるが、長つづきはしなかった。
松岡の女癖が原因で、彼女たちは一年足らずのうちに同棲を解消して、松岡の元を去った。
そして、ふと気付いたとき、松岡は、四十代も半ばを過ぎていたのだった。
(何とかしなければ)
と、思うことはあっても、いまさら、人生のやり直しはきかない。
松岡の前に、ひとつの偶然が訪れたのは、悶々とした毎日を過ごし、安酒に浸っていたころである。
当時、松岡は、旭川の商人宿で住み込みの番頭をしていたのだが、駅裏で一杯飲み屋を経営する未亡人と親しくなった。
その女は、千代とは違って美人ではないし、年齢も五十を過ぎている。
酒好きの松岡は、何となく、駅裏の酒場へ通っていたのに過ぎないが、どういうわけか、女のほうが熱を上げた。
特に、肌の関係を持ってからというもの、女の接近の仕方が激しくなった。
『おまえさん、傍目とは違って、たくましいんだねえ』
女は、松岡が飲みに行くたびに、奥へ誘うようになった。
『いっそのこと、わたしと一緒にならないかい』
女は松岡にしなだれかかった。
『こんなお店だけどさ、二人で暮らしていくぐらいな稼ぎはあるんだよ』
しかし、松岡がいくら女好きだからといって、五十代の後家さんと、毎日顔を合わせる気持ちにはなれない。
その女とは結ばれなかったけれど、女のしつっこい誘いが、松岡にひとつのヒントを与えた。
(そうか。女を利用するという手があったな。旭川のような小さな町ではなく、札幌か、いや、いっそ東京へ行ってみよう)
松岡は、そう考えて、上京してきたのだった。
十代か二十代の若者ならともかく、人生も半ばを過ぎた男がとる行動ではなかった。
だが、定住の場を持たない松岡にしてみれば、旭川も東京も、大した差はなかった。
むしろ、大都会のほうが、さまざまな可能性が転がっているだろうと思った。
そうした松岡の探り当てた相手が、千代に他ならない。
東京にやってきた松岡は、まず、その足がかりとして、未亡人が経営するアパートを捜した。
『旭川で荒物屋を経営していたのですが、妻に先立たれましてね。子供もいないので、店を売って出てきたのですよ』
松岡は、下町の不動産屋を当たるとき、そんな言い方をした。
そして、千代のアパートを紹介されたときのふれこみは、
『東京の空気に慣れたら、どこかに小さい店を買って、文房具屋でも開きたいと考えています』
というものだった。
が、うそはすぐに発覚した。
店を買うどころか、三ヵ月と経たないうちに所持金は失せ、その日の生活にも追われるようになったためである。
しかし、化けの皮がはがれることなど、問題ではなくなっていた。
松岡の手は速かった。
すでにそのころ、松岡は、娘の美知子の目を盗んで、千代との関係を結び始めていたためだ。
夫と死別以来、乾き切っていた未亡人の肉体を燃え上がらせるのに、時間はかからない。
『ねえぇ、あなたって、いったいどういう人なの?』
千代は、そんなつぶやきを繰り返したことはあるが、松岡の「過去」を深追いしようとはしなかった。
松岡が、知らず知らずのうちに身につけていた夜のテクニックが、千代の口を封じたともいえようか。
だが、無収入で、遊んでいるわけにはいかない。
やがて松岡は、千代の古い知り合いを頼って、横須賀の家具店へ勤めるようになった。
横須賀は京浜急行で、大森と一本に結ばれている。
松岡は、定期的に大森へ出てきては、千代との関係をつづけた。
千代の肉体をまさぐりながら、もうひとつのチャンスが訪れるのを、松岡は辛抱強く待った。
そして、ようやく、そのときがきたのだ。
(美知子のことは忘れるんだ。死体の身元が、仮にばれたとしても、オレと美知子を結び付ける人間はいない)
松岡は、胸の奥で何度もつぶやきながら、千代が待つアパートのドアを開けた。