奇妙に、静か過ぎる夜であった。
鋭い月の光が、雪を残した路上に落ちている。
午後から、夕方にかけて降った雪である。しかし、三月の雪は、それほど激しくなかった。
雪は、町中では、ほとんど跡形も見えなかった。
郊外の住宅地だけが、屋根も街路も、うっすらと白い色に覆われている。
月は、雪が上がり、夜がふけてから、東の空に出た。
横浜市緑区青葉台は、新興の住宅地である。二十年ほど前から、次々と、畑が宅地に変わった。
マンションがあり、マンションの周辺には一戸建ての、高級建売り住宅が並んでいる。
そこは、東急田園都市線青葉台駅から、徒歩二十分ほどの場所だった。
きれいに区画された高級住宅地は、夜が早い。
長津田行きの下りも、すでに、終電を過ぎる時間だった。
家々は寝静まり、広い舗道には月光だけが生きている。
かすかに積もった雪の上を、弱い北風が吹いた。
雪の路面に黒い影を落として、長身の男がひとり、街路樹の下を行ったり、来たりしている。
(あの野郎、ずいぶんと、待たせてくれるじゃないか)
男は、ハイライトに火をつけた。月明かりの下で、腕時計に顔をつけるようにして、時間の経過を確かめた。
(こんなに寒い場所で、一体、いつまで待たせるつもりだ)
男は、足元の雪をけった。
男のつぶやきには、どこかに岡山なまりがあった。
黒いダスターコートの、えりを立てた男である。
男は、黒いコートの内側に、日本刀をしのばせていた。
コートのボタンが外されているのは、日本刀が、かさ張るためであった。
しかし、付近の住宅は、大方が、明かりを消して、寝入っている。住民たちは、だれひとりとして、どこからか現われた、この長身の男の存在に気付かなかった。
苛立ちの感じられる歩調で、男が行ったり来たりしているのは、檜葉垣《ひばがき》が多い一角だった。
男は、足元の雪を踏みにじったりしながらも、意識は、絶えず、五メートル先の十字路に向けられている。
十字路の西側の角に、大谷石の門柱の家があった。その家だけ、まだ門灯がついており、家人のだれかが、帰宅していないことを示していた。
長谷博之。
大きい表札にそう記されていることを、男は、三日前に、さりげなく確認してあった。
いま、雪上がりの月光の下でも、念のために、もう一度、表札の文字を確かめた。
(眼鏡をかけた、背の低い、小太りな奴だと言ったな)
男は自分に言い聞かせるようにつぶやき、火をつけたばかりのたばこを、雪の路上に捨てた。
それから、さらに十五分ほども過ぎたときであったろうか。
男が、コートの外側から日本刀の重みを確かめたとき、十字路の先に、自動車のエンジンの音が聞こえた。
青葉台駅の方向から、乗用車のヘッドライトが見えてきた。
(あれだな)
月光を受けた男の横顔に、ぞっとするほど冷たい笑みが浮かんだ。
男は、野獣のように敏捷な身ごなしで、街路樹の陰に隠れた。内ポケットから取り出した、黒い、大きめのサングラスをかけた。
じっと一点を見詰めて、日本刀を抜き放った。
そうして、自らを引き締めるようにして、
「よし!」
足元の雪を踏み締めたが、この男には、呼吸の乱れひとつ、感じられなかった。
月光の下を走ってきた乗用車は、プレリュードのレッドだった。
二人の、中年の男が乗っている。
ハンドルを握っているのは横田康司であり、後部シートにいるのが、長身の男に見張られていた家の当主、長谷博之であった。
横田と長谷は、東京の私立大学に籍を置いていた当時からの親友だった。お互い、四十五歳になる。
二人は十八年前に共同出資して、横浜市内に、『白山電気商会』という、家庭電気製品の販売店を開いた。
業績は順調に伸びた。当初は、家庭電気製品が専門であったけれど、やがて、オーディオ、ワープロ、パソコンから、時計、カメラなども手広く扱うようになった。
最近では、新横浜駅近くの本店のほかに、相模原、平塚、小田原と、神奈川県下に三つのチェーン店を構え、社員は百人にふくれ上がった。
年間の売り上げも五十億円を超え、『白山電気商会』は、株式組織に改められた。長谷博之が社長、横田康司が専務取締役におさまっている。
すべてに慎重な長谷と、決断と実行力の確かな横田は、同業者の間でも、名コンビと評価されている。
十八年来、長谷と横田は、一緒に行動することが多かった。
横田の家は、青葉台の先の緑山なので、夜が遅くなると、横田が長谷を送ってくる。それが、習慣になっていた。
この夜は、ワープロの大口の引き合いがあった。
社長と専務の二人が、折衝に当たっての帰りだった。
客を案内して、元町のクラブを、二軒回った。
車を運転しているせいもあるが、元来、酒の飲めない横田に比べて、後部シートに深々と身を沈めた長谷は、相当に酔っていた。取引先を接待するときは、いつも、こんな具合になる。
その点でも、二人は、名コンビと言えるかもしれない。
社長の長谷が、座を和らげながら、相手に酒を勧め、その間に、専務の横田が、てきぱきと事務的な問題を、処理していくのである。
横田は、月光の中で、ゆっくりとブレーキを踏むと、
「だいぶ酔っているようだな。玄関まで送っていこうか」
と、後ろの座席を振り返った。
いつもなら、門の前に車を横付けにし、そのまま十字路を通り抜けて、横田は緑山の自宅へ戻って行くのだが、この夜、車がとまったのは、長谷の家より三軒ほど手前だった。
雪でスリップするといけない。それが、ハンドルを持つ横田の説明だった。
「大丈夫だよ。心配するなって。そんなに酔っていやしない」
長谷は、横田が手を貸そうとするのを、振り切った。勝手にドアを開けて、乗用車を降りた。
月の光を受けて、長谷の眼鏡が、きらりと光った。
横田は、長谷が家に入るのを、見届けなかった。
「じゃ」
横田は、長谷が雪の路上に出ると、すぐにプレリュードを発進させた。
『社長は、確かに、いつもより酔っていました。でも、家はすぐ目の前です。万に一つも間違いはないと思いました』
横田は、後に所轄の青葉台署から事情を訊《き》かれたとき、こうこたえている。
『人影ですか? 気が付きませんでしたねえ。あの時間帯ですと、あの辺りは、真夏でも人っ子一人いないことが多いのですよ』
だが、思いもかけない事件は、横田の運転する乗用車が、国道246号線方向へ遠ざかった直後に起こったのである。
長谷は、薄く積もった雪に足を取られたりしながら、ふらふらと我が家にたどり着いた。そして、門柱のチャイムを、押そうとしたとき、
「やめな」
黒い影が、邪険に、長谷の手を払った。
「長谷博之さんだね」
長身の男は、岡山なまりの押し殺した声で、相手を確かめた。 昨年、三月四日のことである。