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杉崎英次を乗せた新幹線�ひかり号�が、新大阪を発車し、一路岡山に向かう頃、四十五歳の長谷博之は、緑区内の救急病院で、全身の激痛に堪えていた。
長谷が肩や顔、腕などに負った傷は、六ヵ所を数えた。
全治三ヵ月の重傷だった。
「ご家族の発見が、三十分遅れていたら、ご主人は雪の路上で、息を引き取っていたでしょうね」
と、医師は言った。
急を知って、病院には次々と、見舞い客がきた。
『白山電気商会』の幹部も顔をそろえたし、取引先の人々も多かった。
そうした見舞い客に、丁寧にあいさつしているのが、専務の横田康司であり、病室の前に張り込んでいる所轄青葉台署の二人の刑事が、さりげなく、被害者との関係を尋ねたりしている。
「一体どういうことなのですか。長谷さんが、こんなことになるなんて」
見舞い客は、だれもが、一様に意外だという顔をした。
中には、間違って襲われたのではないか、と繰り返す人も多かった。
考えられないことではなかった。
襲撃犯人が、長谷を別のだれかと錯覚したのではないか。
青葉台署の刑事課でも、一時、そうした意見が大勢を占めた。
金銭とか、オメガ・シーマスターの高級腕時計など、所持品は何も奪われていないのだから、物盗りの犯行とは違う。
横田の証言によれば、昨夜は、いつもとは異なって、長谷は自宅からやや離れた地点で、車を降りている。犯人側が、人違いをしたのではないかと考えるのも、あながち不自然ではなかった。
だが、この推測は、長谷が意識を取り戻したときに破られた。
長谷は、はっきりと自分の氏名を確かめられた、と、述べた。
「しかし、思い当たることは、何もありませんな」
「訳の分からないことです」
横田を始め、家族たちも、関係者はすべて、申し合わせたように、不審な顔付きをした。
長谷には、高校と中学に通う二人の女の子がいた。
妻の証言によれば、長谷はマイホーム型の夫で、人に恨まれる覚えはないということだった。
これは、その後の調べでも、妻の証言を否定するような事実は現われなかった。
とすると、残る一点は、『白山電気商会』の関係ということになる。
が、このほうの捜査でも、疑点は現出しなかった。
長谷は社員たちの受けもいいし、取引先でも、その人柄のよさは、高く買われているのである。
その上、『白山電気商会』の営業内容は順調だった。メーカー側の信用も、絶大といっていい。
(手がかりなしか)
青葉台署の刑事課捜査係主任の部長刑事《でかちよう》は、病院の控え室で、再度横田から事情を聞いて、渋い表情をした。
「人には、それぞれプライベートな、隠れた一面があると思うんです。捜査の秘密は、絶対に厳守します。思い付いたことがあったら、何でも打ち明けてくれませんか」
部長刑事は、横田を前にして、粘った。
「はあ、社長は酒好きではありますけれども、学生時代から、これといった道楽も持たない、ごくごく平凡な人間です」
だれかから生命を狙われるような人間ではない、と、横田は繰り返した。
長谷と二人きりのときの横田は、学生時代と同様に、「おまえ」「おれ」と呼び合っているのだが、改まった場所では、長谷のことを「社長」と口にするようになっている。
「社長は」
と、横田はつづけた。
「社長は、学生時代から、だれにも好かれる人柄でした。それにしても、弱りました。今年は、大々的にワープロを販売する予定でした。県下だけでも、相当数引き合いに入っていた矢先のいま、社長に倒れられたのでは、営業にも響きます」
当の長谷博之は、それから二日後に完全に意識を回復したが、長谷の証言も、横田や家族のそれと大差はなかった。
「犯人に見覚えはありません」
日本刀で襲撃される覚えなど、全然ないというのである。
(だれかが、事実を隠している。すでに事情聴取した関係者の中に、真実を承知している人間がいる)
捜査陣は、だれしもがそう考えた。
だが、依然として、手がかりは皆無なのである。
現場百遍の格言通り、初歩的な段階から捜査をやり直しても、新しい線は浮かんでこなかった。
たとえば、月賦の支払いに困っている客が、何人かいた。しかし、それもせいぜい十万円ていどだった。
そのくらいな負債で、長谷を襲うとは考えられなかった。
仮に、社長である長谷を殺したところで、(小さな個人商店ではなし)残金の支払いが、帳消しになるはずもなかった。
こうして、どうしようもない壁を捜査陣が意識する頃、ふと、部長刑事《でかちよう》の第六感に、ぴんと響いてくるできごとがあった。
三月も下旬となり、ようやく春めいてきたある日だった。
病院の院長が、長谷の治療経過を説明したあとで、専務の横田と、居合わせた部長刑事に向かって、今後の見通しを語った。
「一応全治三ヵ月と診断しましたが、退院しても、前のように働くのは無理だと思われますな」
「困ったことになった」
横田は目を伏せた。
が、口調は沈痛だが、院長の説明が終わったとき、ある表情が横顔に浮かんでくるのを、横田は、消すことができなかった。
横田のその微妙な変化を、ベテラン部長刑事は見逃さなかった。
『困った』
ということばとは全く裏腹な、躍動してくるような、隠し切れないある種の表情を、部長刑事は捕らえていたのである。
(何だ、これは?)
部長刑事はひとりごちた。
(白山電気商会の中に、内紛でもあったとすれば、問題だぞ)
部長刑事は、肩幅の広い横田を、盗むように見た。
横田の身辺が、本格的に洗われるようになったのは、この一瞬からである。
しかし、それは飽くまでも、状況証拠だった。
刑事の第六感に過ぎない。
結着を見るまでには、長い時間が必要だった。