横田康司は、岡山県|新見《にいみ》市の、農家の三男だった。
神奈川県警は、岡山県警に対して、身元照会の協力を要請した。
横田は、地元の中学校を卒業すると同時に、故郷を出ていた。
倉敷市の紡績工場の、住み込み工員となったのである。
人一倍向学心に燃えていた横田は、定時制高校に通った。成績は、常に三番とは下らないほどに優秀だった。
横田は、最初から、紡績工場の工員で満足できる男ではなかった。
高校の卒業を待って東京に出た。
宅配便トラックの助手、喫茶店のボーイ、ビルの清掃係など、アルバイトをつづけながら、私大の経済学部に籍を置いた。
長谷博之と知り合い、親しくなったのが、東京の学生時代である。
長谷は、横田とは対照的に、生活に恵まれていた。横浜市郊外の、地主の次男であった。
長谷の家族も、横田には好意を抱き、物心両面で、力になってきたようだ。
やがて大学を卒業した長谷と横田は、そろって、大手弱電メーカーの『M電器』に入社。営業部員として働いたが、五年目に独立を図った。
『初めは小さな小売店でいい。ともかく、自分たちの城を持ちたい』
と、話を切り出したのは、長谷のほうであったが、
『よし、頑張ろう』
横田は、長谷以上に積極的だった。
名目上共同出資とはいえ、資金は、すべて長谷におぶさる形でのスタートだった。『M電器』の系列店として、東横線大倉山駅前に店を開いた。
間もなく、新横浜駅近くに移り、この頃から業績はぐんぐん上昇した。
この間に、長谷も横田も妻帯している。横田も緑山にマイホームを入手したし、子供もできて、生活も安定した。
横田は、資金面では長谷に頭が上がらないけれども、実行力は、自分のほうが上だという確信を持っている。経営が順調に伸びてきたのは、ここ一番というときの、自分の決断力が大きくものを言っている。
横田は、強く、そうした自負を抱いているようだった。
これは、刑事が、『白山電気商会』を細かく聞き込んで、判明したことである。
(なるほど。社長に代わって、専務が実権を握る。動機としては、弱い線ではないぞ)
刑事課長も、横田康司の追及に積極的な姿勢を見せるようになった。
だが、何といっても、状況証拠だけなのである。
凶器が発見され、直接手を下した犯人を突きとめない限り、横田康司の逮捕状を請求することは困難だ。
日本刀を振りかざした、影の下手人はどこにいるのか。
それとも横田は、実際には、犯行と無関係なのだろうか。
捜査陣の疑心暗鬼と苛立ちの中で、二ヵ月、三ヵ月と、月日は過ぎていった。
世間の人々は、月下の雪を、血に染めた事件を忘れた。
新聞の続報も消えた。
そして、九月の臨時株主総会では、長谷に代わって横田が、正式に、『白山電気商会』社長の座におさまった。
総会といっても、ごく内々の、形式的なものであったが、ともかく長谷は、非常勤の平取締役に降格されたのだった。
長谷は退院はしたものの、日常生活にも不便をかこつ体となっていた。院長が、横田に説明した通りだった。
「心配するな。二人で発展させてきた会社じゃないか。一生、きみや、きみたち家族の面倒は見させてもらうよ」
横田は、長谷の家を訪れると、必ず、そう繰り返した。
三月の事件をきっかけにして、完全に、二人の立場が逆になっていた。
長谷は、横田の激励を文字通りの友情と受け取っていたようである。判然としない事件に巻き込まれた不合理を、横田に重ね合わせたりはしなかったようだ。
しかし、横田の瞳の奥には、友情とは異なる、黒い輝きが宿っていたのである。
(あとは、少しずつ株を買い占めていけばいい。時間の問題で、白山電気商会はオレのものになる)
横田は、胸の裡《うち》で、冷笑を浮かべていたのだ。
間違いなく、横田康司が、殺人未遂事件の真犯人であった。
長谷が生き残ったことを別にすれば、計画は、すべて、横田が意図した通りに運ばれたのである。
いや、生き残ったといっても、長谷は廃人同様なのだから、息の根をとめてしまうよりも、気が楽というものだ。
刑事の執拗さを知らない横田は、表面上の追及が消えたことで、すべての片がついたと思い込んだ。
(これからは、オレの天下だ。だれにも口を挟ませないぞ)
横田は、じわじわと本性を現わした。
さらにチェーン店を増設し、長谷が慎重な性格ゆえに実現を見なかったプリント組み立ての下請け仕事なども始めてみたい、と、考えたりした。
だが、火は完全に消えていなかった。燃え残った熾《おき》は、岡山から燻《くすぶ》り出したのである。
横田が念願の社長の座についたことを、杉崎英次が、風の便りに聞いたのは、秋も終わろうとする頃だった。
(年商五十億の社長さんにしては、六百万円は安過ぎやしないか)
杉崎はそう思った。
確かに、残金の四百万円は、あれから間もなく、杉崎の情婦ともいうべき渡辺ひとみあてに送られてきた。
だが、杉崎もひとみも、職を持たずに遊び暮らしているのである。
六百万円ていどの現金が、いつまでももつわけはなかった。
「事情はよく知らないけどさ、その社長さんとかから、絞り取れるものなら、もっと絞り取ったらいいのと違う?」
ひとみは、杉崎の話を聞きかじって、無責任にけしかけた。
ひとみはまだ十八歳の少女であったが、杉崎の前にも、桑田町で、テレクラで働く男と同棲していたことがある家出娘《やさぐれ》だった。
白い肌で、かわいらしい顔立ちをしているのに、罪を罪とも思わない点においては、杉崎以上、といえるかもしれない。罪の意識などとは、無縁の日常だった。
「ねえ、あたし前から東京に憧れているの。横浜なら、東京に近いわね。今度、恐喝《かつあげ》に行くとき、あたしも連れてって」
「あきれたやつだ」
杉崎は、満更でもない口調でことばを返すと、ひとみの背中に手を回した。
そのとき、杉崎とひとみは、柳町のラブホテルにいた。
回転ベッドと、ミラー・ルームが売り物のホテルだった。