昇治はさり気なくブルゾンを脱ぐと、体を寄せ合ったひざの上に、それを置いた。
いつもの順序だった。
こうして、千佳の肩から外した右手を、ジーンズの中へ滑り込ませていくのである。
「千佳が欲しい」
昇治は、ペッティングがエスカレートしていくにつれて、何度、それを口にしかけたかしれない。
もしも、
「それだけは結婚するまで待って」
と、千佳が首を振ったら、それはそれでいい。
だが、夜の公園などとは違う二人だけの部屋で、千佳のすべてを目にしたい。
セックスが駄目なら、ペッティングだけでもいいのだ。
こうした人目を忍ぶ愛撫とは異なり、二人だけの部屋で、すべてをさらけ出してみたいと思った。
「千佳のヌードを見たいな」
しかし、その一言を口にできないのは、昇治の人柄だった。
軽薄にセックスを楽しむだけの交際ではなく、意識の上で、はっきりと結婚を前提としているがゆえに、なおのこと、慎重になるのだろうか。
いまの交流は、大事にしなければならないのである。
「好きだよ」
昇治は、複雑に錯綜してくる想念を振り払うようにして、それだけを言った。
右手の指先は、昇治のためらいとは逆に、下部へ下りていく。
千佳の肌にぴったり食い入るように密着している下着。
その内側に差し込まれた指先は、じっくりと、恥ずかしい個所の周辺を探り当てようとする。
こうして、星空の下の時間が過ぎると、直接的な性体験を持たない千佳の肉体にも、変化があらわれ始める。
千佳の吐息が、粘り付くような感じに変わっている。
(こんなときの千佳の全裸を、だれもいない二人きりの部屋の中で目にすることができたら、素晴しいだろうな)
昇治の内面で、そんなふうにささやく声が高くなる。
すると、指を這わせている部分に、直接、唇を押し当てたいような衝動が昇治を見舞った。
二人だけの部屋の中であるならば、それができるのだ。
日曜日に三浦半島へ行ったら、その帰りに、思い切って誘いをかけてみようか。
千佳が断わるわけはないと思った。
自分が決断さえすればいいのだろう、と、昇治は考える。
また一組、肩を抱き合ったアベックが市立図書館のほうから上がってきて、水銀灯の向こう側へと消えて行った。
「寒くないか」
と、昇治は言った。
寒いどころか、暖か過ぎる夜であるのに、一瞬、ことばが見つからなかった。
ことばには逡巡があるけれど、昇治は千佳の白い指を取ると、自分のほうへ誘導していた。
昇治の変化も、千佳に劣らなかった。
そこに触れさせると、千佳は一瞬ためらったけれど、しかし、手を引っ込めようとはしなかった。
いつもと同じだった。
昇治の指先が千佳の中に差し込まれていくと、千佳も、恥ずかしさを漂わせながらも、力を込めてくる。
影のような二人は、もう何の動きも見せはしない。
二人以外のだれにも知られないところで、じわじわと力が加えられ、そして、タイミングを計るように、力が外されていくだけだ。
眼下に広がる、横浜中心部の夜の彩りも、次第に二人から遠くなっていく。
(幸福だわ)
千佳の胸の奥を、滅多に使ったことのないことばが流れるのは、こうしたときである。
ペッティングそのものが、幸福なのではなかった。
ペッティングの向こう側にある、心と心の結び付きが大事だった。
千佳は、このようにして愛を確かめ合っていることに、たまらない充実感を覚えるのである。
千佳も、昇治と同じように、いま指の先で触れている部分に、自分の唇を当ててみたいと思うことがあった。
性の欲望ではなかった。
もっともっと、昇治の愛の中へ沈んでいきたかったのだ。
肉体を通して、昇治の愛を自分のものにしたいと考えた。
それは健全な男女の、まともな恋愛の過程というべきだろう。
いま、星空の下の野毛山公園には、セックスを、単なる悦楽としてしか捉えていない男女も多いはずだ。
しかし、飽くまでも、昇治と千佳は違った。
二人の交わりの彼方には、何年先になるか分からないが、「結婚」という新しい生活が、約束されているのである。
昇治の指先が、さらに千佳の内奥を確かめ、思わず知らず千佳が反応を示し、それがまた千佳の指の動きとなって、昇治に返ってくるとき、二人は、性の欲望を超えて、お互いの心を自分のものにしようとした。
ベンチの上で、ひとつの影と化したまま、長い時間が過ぎた。
周囲のすべてが、完全に、二人からは隔《へだ》たったものとなっている。
やがて、若い恋人同士は、充実した感情に浸りながら、公園の砂利道を下って行くだろう。
いつもと同じようにだ。
日ノ出町から京浜急行に乗り、井土ケ谷まで戻る。
井土ケ谷駅近くのハンバーガーショップで空腹を満たし、昇治は、女子寮の傍まで千佳を送って行くだろう。
そして、口笛を吹きながら小学校の前を横切って、軽い足取りで男子寮へ帰って行くだろう。
しかし、この夜、昇治と千佳は、いつものコースで戻って行くことを許されなかった。
停止した時間の中に沈む昇治と千佳は何も気付かなかったけれど、その一部始終を、息を詰めて目撃する、二人の男がいたのだ。
山下和也二十六歳と、長沢信明二十二歳である。
派手なマフラーを首に巻き、そろって革ジャンパーを着込んだ山下と長沢は、一見、チンピラふうな印象を与える。
昇治と千佳が腰かけたベンチの背後は、なだらかな傾斜地になっている。
桜の大木の陰で、草むらに這いつくばった山下と長沢は、頬杖をしていた。
山下と長沢は、昇治と千佳がベンチに腰を下ろしたときから、じっと、その動きを見詰めていたのである。