春先から初夏にかけて、痴漢が多いことは常識となっている。
夜の公園などで、アベックの密会をのぞいたり脅したりする男が、パトロールの網に引っ掛かるのも、桜が花ひらく春先から増えてくる。
長かった冬が去り、自然が活動を始めると、人間の欲望も表面に出てくる。
これは昔から言われていることだが、しかし、山下と長沢の場合は、季節の移ろいには関係がなかった。
「たまらねえな。あのスケ、いい体をしてるぜ」
「おまえ好みのグラマーだな」
「兄貴だって、細いのより太い女のほうが好きなはずだ」
「それにしても、あいつら、いつまでいちゃいちゃしてやがるんだ」
「見物させてもらっただけで別れるには、惜しいスケだぜ」
「ガンづけしてみるか」
山下は口をあけてチューインガムをかみながら、にたりと笑った。
山下と長沢は、四つ違いということもあったけれど、山下が「兄貴」と呼ばれているのは、年齢差だけが理由ではなかった。
二人とも、どこかの組に所属した経験はなかった。
ただ、横浜駅西口周辺とか、野毛とか伊勢佐木町の盛り場などを、おもしろおかしく遊び歩く仲間《だち》に過ぎなかった。
しかし、山下のほうが、けた外れに金回りがよかった。
夜の町を遊び回る山下と長沢が、これまで、金銭を巻き上げるといったような恐喝事件を一度だって起こしていないのも、山下のふところ具合がよかったためである。
山下は、戸塚区内では代々つづいた、大地主の三男だった。
先祖伝来の土地は決して手放さないと頑張っていた老父が、周囲の勧めに負けて姿勢を変えた。
老父は、山林や農地を、次々と大手不動産会社に売却し、財産を三人の子供たちに分け与えた。
山下は、いわば典型的な、「土地成金の息子」だったわけである。
高卒後勤めていた、舞岡町のガソリンスタンドもさっさと辞めた。
山下は、赤いスポーツカーを乗り回すようになった。
足繁く、歓楽街のポーカーゲーム店などへも出入りするようになった。
両親が大金の魔力に気付いたときは、もう手遅れだった。
「オレの金を、オレがどう使おうと勝手だろ。オレはもう子供じゃない。家を出て独立する」
山下は、職もないのに、そう言い残して戸塚の家を出た。
国道1号線に近い天王町に、2DKのマンションを買った。
家族から離れ、天王町のマンションに移ってからは、一層、遊びに明け暮れる毎日となった。
普通の所帯持ちばかりが住むマンションの中で、山下だけが異質だった。
ポーカーゲーム店で長沢と知り合い、長沢を弟分のようにして連れ歩くことで満足する、奇妙な虚栄心も表面に出てきた。
遊興費は、もちろんそのすべてを、山下が札びらを切った。
キャッシュがたっぷりあるから、女にも不自由しない。
女の体を抱きたくなれば、ソープランドとかクラブのホステスなどのいわばプロを、現金で口説けばいいわけである。
こうした無軌道な男たちに特有の、婦女暴行といったような行為を、実際に引き起こしていないのもまた、金銭に余裕があったがゆえと言えるだろう。
しかし、この夜は違った。
昇治と千佳の執拗なペッティングを見せつけられているうちに、かつてない刺激が、山下と長沢を衝《つ》き上げてきたのである。
金で買った女からは得られない興奮が、そこに展開されている。
いつもだと、こうしたのぞきの後の山下と長沢は、福富町のソープランドへでも直行するのだが、いつもとは異なる欲望が渦を巻き始めている。
昇治と千佳にとって、山下と長沢にのぞかれたのが偶然なら、千佳が、山下と長沢の「好み」の体形であったことも、不幸な偶然だった。
「兄貴よお、オレ一度でいいから、トウシロのスケをやってみたかったんだ」
「野郎のほうを片付けて、女をオレのマンションへ連れ込むか」
「悪くないね。あれだけの体なら、痛め甲斐もあるってものさ」
「ふん、おまえも一端《いつぱし》の口をたたくじゃねえか」
山下も長沢も、実際には暴力団とは全く無縁であるのに、知らないスナックなどへ飲みに行って、組員を気取ってみせるような一面があった。
もっとも、実際にやくざ者らしき男たちが現われると、手のひらを返すように表情を変えてしまうのが常であったけれど。
いずれにしても、そんなことで歪《ゆが》んだ見栄を満たしているというのも、日常生活を見失っている乱れの反映と言えるだろう。
十代の若者ならともかく、山下のほうは二十代も後半なのである。
それも、労せずして思わぬ大金が転げ込んできた結果なのだ。
ねじれた青春だった。
そうした二人の男に見詰められているとも知らずに、堅実な明日を夢見る千佳と昇治は、いつまでも、お互いを確かめ合った。
「そろそろ帰ろうか」
昇治がそう言って、千佳のジーンズから手を抜いたのは、午後九時を回る頃だったろうか。
昇治自身の一隅には、もうひとつ満たされないものが残っているけれど、それを夜の公園で発散させるわけにはいかない。
次の日曜日の、三浦半島行きに期待しようと自らに言い聞かせた。
昇治はそっと千佳に唇を重ね、それから立ち上がった。
「日ノ出町の駅まで、遠回りして帰ることにしようか」
「うん」
千佳は逆らわなかった。
それもいけなかった。
いつもなら、坂道を下り、市立図書館の横を右に折れ、自動車の往来が多い大通りを帰るのだが、この夜の昇治と千佳は違った。
逆に公園内の坂道を上がり、野毛山動物園の裏手を通り、市営プールへとつづく道を選んだのだ。
近くに人家はあるけれど、昼間でも人通りの少ない一角に出た。
山下と長沢、尾行を開始した二人のオオカミどもにとっては、正におあつらえ向きの場所へ、昇治と千佳は足を向けてしまったわけである。
革ジャンパーの二人が、ひそかに後をつけてくるとも知らずに、いや、そんなことは全く考えられるわけもなく、千佳と昇治は公園の中の広い舗道を上がった。
上がり切ったところで、公園を抜けた。
左に道をとって、人気のない急な坂を下り始めた。
何かに酔ったようにして、そぞろ歩く昇治と千佳の顔を、なま暖かい風がまともに吹き上げてくる。
「おい待ちなよ。待てってば!」
背後の錯綜した靴音が、足早に接近してきたのはそのときである。