そのとき、小池久乃は、自動出札口の傍にたたずんでいた。
電話コーナーとは、斜めに向かい合った場所である。
和田と若い女の会話は聞こえなかったけれども、二人の動作は、手に取るように分かった。
久乃は、和田に話しかけた女よりも年かさだった。
二十八、九という感じである。
前の女とは対照的に、やせた女で、肌も白くはなかった。
短いヘアスタイルのせいもあって、後ろから見ると、男性のような印象も与える女だった。
(ふん、あの酔っ払いのオジン、ひっかかったようだナ)
と、漏らしたつぶやきも、男性的だった。
この久乃もまた、アルコールの酔いの中にいた。
久乃はキャスターを吹かしながら、じっと、先方の動きに注意を向けている。
双方の間には、絶えず人が往来しているのだが、久乃の視線は、電話コーナーの前の男女から離れない。
(ジュンメンみたいな顔しちゃってさ、あの子も結構やるじゃないか)
久乃は、男のような仕ぐさで、たばこをくゆらした。
ジュンメンというのは、レズの用語で、男性にしか興味のない、普通の女の子のことを指すのである。
(でも、このまま話がすんなりいくと思ったら、大間違いよ)
久乃は、前の二人を見詰めて、そんなつぶやきを口に出した。
和田と、若い女との話のまとまったのが、ちょうどそのときである。
前の二人は、構内の人込みの中を歩き始めた。
二人は中央コンコースを歩いて、南口へ出た。
しかし、南出口のタクシー乗り場には長い列ができていたので、和田と若い女は、手前の階段を下りて、地下鉄東梅田駅のほうに向かった。
地下通路も、まだ人の流れが多い。
その人込みの中を、久乃は、黙って、和田と若い女の後を尾行《つけ》た。
二人は東梅田駅の改札を通り、久乃が、一定の間隔を置いて、それにつづいた。
八尾南行きの、地下鉄が滑り込んできた。
久乃は、前の二人とは別のドアを選んで、同じ車両に乗った。
地下鉄も込んでいる。
前の二人は何事か、話に熱中しており、まったく、背後を振り向こうとはしなかった。
二人は顔をくっつけんばかりにして向かい合っており、若い女は、久乃のほうに背を向けている。
久乃に見える和田の顔は、さっきよりもだいぶ和らいでいる。
というよりも、何かを期待する中年男に特有の表情が、にじみ出ているようでもあった。
(普段はいくらマジメそうな顔していても、男なんか、皆、嫌らしいわ。特にジュンタチの嫌らしさったらありやしない)
久乃の両の目に、暗い光が宿った。
ジュンタチというのもまた、レズやホモの用語だ。
女性にしか関心のない、普通の男性をそう呼ぶのである。
こんなつぶやきを繰り返す久乃は、もちろん、レズの世界に身を置いている一人であり、その風貌からも察しられるように、プレーのときは男役をつとめるのが常だった。
地下鉄は四天王寺前を過ぎ、天王寺に近付いている。
酔っ払いの、帰宅姿が目立つ車内だった。
和田と若い女は、さっき、初めてことばを交わしたようには見えない。
酔いが、妙な親近感を深めるのであろうか。
二人はもう長いつきあいをつづけており、今夜もずっと二人だけで、だれにも知られない時間を過ごしてきた、と、そういう感じだった。
和田を誘った若い女性の名前は、志水昭子といった。
二十四歳である。
しかし昭子は、こんな場合、身元を名乗る必要がないことを知っていた。
そうした経験を、いくつも持っている女であった。
若さには自信があった。
かつて、昭子の微笑を拒否した中年男性はいなかった。
一定の目的を持つ昭子は、同世代の若い男性には見向きもしなかった。
(今夜も、きっとうまくいくわ)
昭子がそっと下唇をかんだとき、電車が揺れて、和田が話しかけてきた。
「あんた、大阪市内のどこかへ勤めているんでしょう?」
「どんなふうに見えて?」
「学生さんとは思えないけど」
「そんなこと、どうだっていいわ。ねえ、課長さん、あたし、日常生活の煩わしさから脱け出したくて、それで、課長さんをお誘いしたのよ」
「なるほど、それが、若い人の考え方というのかな」
「あら、嫌だわ。課長さんだって、若いじゃないですか」
と、たわいのないことを、しゃべり合っているうちに、電車のスピードが落ちた。
天王寺駅だった。
和田は、家がある西宮とは、まったく逆方向へ誘い出されてしまったわけである。
天王寺は関西本線とか阪和線、そして南海電鉄などの乗り換え駅なので、乗降客が多い。
和田と昭子は、人波に押し出されるようにして、ホームに降りた。
どちらからともなく、腕を組み合っていた。
和田にしてみれば、自宅とは逆方向へ来た、解放感もあっただろう。
(ふん、いい気なものだわ)
と、つぶやいたのは、一緒に天王寺で下車した久乃のほうである。
久乃は、前を行く二人を、相変わらず、見え隠れに尾行した。
二人は地下鉄の駅を上がると、天王寺のステーションビルとは反対側の舗道に出た。
天王寺公園に沿って右折すると、梅田周辺とは違って、急に人通りが少なくなる。
「どこへ行くのかね」
「すぐそこよ」
昭子は、和田と組んだ腕を引っ張るようにして歩いた。
しばらく行くと雑居ビルがあり、ビルの地下にスナックがあった。
スナックの入口に当たる、舗道脇の階段に看板が出ており、『シルバーレイク』と読めた。
(あんなに酔っているくせに、まだ飲むつもりなのかしら)
と、尾行者の久乃は眉をしかめた。
和田は昭子の肩にしなだれかかるようにして、ふらふらする足取りで、地下への階段を下りて行く。
もちろん、その二人は、少なくとも和田は、尾行者の存在に気付いていなかった。
いや、顔が合ったとしても、何とも思わなかっただろう。
和田にとって久乃は、見知らぬ女性に過ぎない。
『シルバーレイク』の薄暗い照明の中に立ったとき、和田がふと考えたのは、
(ここは高そうな店だな)
ということだけだった。
だが、心配することもないだろう。
背広の内ポケットには、七万円近い現金が残っているはずだった。
(たまには、アバンチュールを楽しむのもいい)
と、和田は自分に言い聞かせた。
酔いが日頃の慎重さを奪い、和田を大胆にしていた。
こんな経験は、和田にとって、本当に初めてなのである。