『シルバーレイク』は、同伴客が多いスナックだった。
和田と昭子は、一番隅のボックスシートに、並んで座った。
昭子は何やらカクテルを注文し、和田にも同じものでいいか、と、訊《き》いた。
「ああ、ぼくは何でもかまわない。あんたに任せるよ」
と、和田はこたえた。
酔い過ぎているために、カクテルを選《え》り好みする段階は過ぎている。
しかし、このとき、和田は考えた。
食事をしないか、と誘いながら、昭子は、地下のこの薄暗いスナックへ直行したのである。
(これが、客引きというのだろうか)
和田の思ったのが、それだった。
だが、天王寺のスナックの客引きが梅田まで出向いて行くということはないだろうし、店内の同伴客にも、ことさら目立つ不自然さは感じられない。
(まさか、暴力スナックというわけでもあるまい)
和田は胸の奥でつぶやいた。
仮に怪しげな店であったとしても、シートに腰を下ろし、飲みものを注文したいまとなって、引き返すわけにはいかない。
「課長さん、何考えているの? 当ててみましょうか」
昭子は、ピンク色のカクテルが二つ運ばれてきたとき、つぶらな瞳を、さっきと同じようにじっと和田に向けて、笑みを浮かべた。
「奥さんのことが、心配になってきたのと違う?」
「つまらないこと、言うものじゃない」
「本当? でも駄目よ。今夜、課長さんを帰さないから」
「ところで、あんたの名前を、まだ聞いていなかった」
「あたしだって、課長さんのお名前を知らないわ」
「ぼくはね」
和田は、背広の内ポケットから名刺入れを取り出した。
普段は人一倍の小心というか、几帳面な性格なので、むやみに社用の名刺を配るようなことはしない。
昭子の微笑が、和田の一瞬のためらいを消していた。
「あら、光洋物産なの? こんな一流の会社なら、そこらの課長さんとは、格が違うわけね」
昭子は、照明が暗いので、名刺を顔に近付けるようにしてから言った。
「ほう、あんた、光洋物産を知っているの?」
と、和田はカクテルグラスをとった。
自分が勤める会社名を知られているというのは、悪い気がしない。
だが昭子のほうは、自分の名前だけは和田の耳元で口にしたものの、身元までは明かさなかった。
「OLとも学生さんとも言わないのは、ぼくとこうして飲んでいることを、だれかに知られると困るからだね」
と、和田がやや不満そうに言うと、
「別に隠すつもりなんかないわ」
昭子は頬を寄せてきた。
「それが証拠に、もし課長さんさえよろしかったら、これから、あたしのマンションへ来てもらってもいいのよ」
「あんたのマンションへ?」
「ここからなら、歩いても十分とかからないわ」
昭子の白い指先が伸びてきて、和田の指を誘った。
昭子の掌は汗ばんでいる。
思わず、和田がその指先を握り返すと、昭子は、ふいに考えついたように口走った。
「ねえ、あたしのマンションへ行きましょうよ。あたしの部屋にも、スコッチぐらいあるわ」
昭子は、和田の耳元に熱い息を吐きかけて、マンションへこないか、と、繰り返した。
和田の体の一部に、若者のような変化が生じ始めていた。
こんなに酔っているのに、こうなることは、最近例がなかった。
どこまで計算しているのか分からないが、昭子のもう一方の手が、和田のズボンの上にやってきた。
あるいは、本能的にそうするのか、細い指先が、微妙な動きで、和田のズボンを這《は》い始める。
昭子は、いつともなく横向きになっており、片方の手で和田の指を誘導し、残る右手が、付かず離れずに、ある部分を探ろうとしているのである。
(この女も、同じように酔い過ぎているのだろうか)
誘われた指が、昭子のジョッパーズのファスナーを下げたとき、和田ははっとしたように力を抜いた。
「課長さんて、純情なのね」
ふたたび、熱い息を吐きかけるようなささやきが、和田の耳元をくすぐる。
「このままじゃ、嫌だわ」
「しかし」
「ここまで来て、このまま放り出すつもりではないでしょうね」
昭子は、その胸のふくらみを、ぐっと押しつけてきた。
和田は家族のことを忘れた。
昭子の力を、はね返すことができなくなっている自分を知った。
いまになってそれができるくらいなら、さっき、あのまま、梅田から阪急電車に乗っていただろう。
二人は、もう一杯ずつカクテルのグラスを重ねて、『シルバーレイク』を出た。
暴力スナックどころか、料金はむしろ安いくらいだった。
支払いの安かったことが、和田の内面でかすかに尾を引いていた不安を、吹きとばした。
(フィーリングということばが、はやったことがあったな。われわれの世代が、余計な取越し苦労をする必要はないんだ)
和田は自らを納得させるように、自分に向かってそんなつぶやきを漏らした。
和田はもう一度昭子と肩を組み合って、夜ふけの町を歩き始める。
その二人を尾行していた久乃の姿は、いつともなく消えていた。