翌八月二十六日は、土曜日だった。
週休二日制で、会社は休みだ。
和田はまんじりともせずに朝を迎え、二日酔いの重い脳裏で、悪夢のような昨夜を思い返していた。
(何も起こらないように)
と、祈る気持ちに、水を差すような電話がかかってきたのは、正午過ぎである。
久乃と昭子は、朝、和田の名刺を持って、堂島浜の『光洋物産』本社に出向いた。
会社は休日でも、当然、守衛もいるし、日直も詰めている。
久乃と昭子は遠縁の者と偽って、営業部第二営業課長和田紀夫の住所と、自宅電話番号を聞き出した。
「昭子《あき》、こういうことは、早いほうがいいのよ」
時間が経てば、相手はそれなりに心の準備をする。
その前に押しかけよう、と、久乃は言った。
これまで三回の犯行のときも、そうであった。
久乃と昭子は、堂島浜からタクシーで梅田へ出ると、阪急電車に乗って西宮へ来た。
高級住宅地を控えた西宮駅前は、人通りが少なかった。
久乃が和田の自宅へ電話をかけたのは、駅前のボックスからである。
「もしもし。え? 何だって?」
電話を受けた和田は、自分の顔色が変わるのを知った。
二日酔いがもたらす頭痛など、一気に、どこかへ吹きとんだ。
「はい、妹も一緒です。奥さんにもお話を聞いていただいたほうがよろしいかと思います。これから伺います」
と、久乃の無表情な声が電話に伝わってくる。
抑揚を欠いた口調が、不気味だった。
二人が何を要求しようとしているのか、言われなくとも分かった。
「西宮の駅前まで来ているのですね。分かりました。ぼくのほうから出向きます」
和田は、背後にいる妻の視線を気にしながらこたえた。
何とか妻を言いくるめて、家を出た。
坂道には、八月の真昼の陽差しが強かった。
しかし和田は、直射日光を暑いとも感じず、むしろ、強い光に虚しさを感じていた。
和田が、久乃と昭子を駅裏の喫茶店に誘うと、
「これ、お返しするわ」
久乃は、ポシェットから五枚の一万円札を取り出して、テーブルに載せた。
「お金でケリがつく問題ではないと思います。婚約中の妹は、それこそキズモノにされてしまったのですからね」
久乃は電話と同じように、抑揚を欠いた冷たい口の利き方をした。
昭子のほうは、じっと、下を向いたままである。
「奥さんにもお会いしたいし、会社の重役さんにも、ご相談に乗っていただきたいと思います」
と、久乃はつづけた。
とても、OLとは思えない、脅迫ぶりだった。
(誘ったのは昭子のほうではないか)
その一言が口元まで出かかっているが、和田は何も訴えることができない。
それでなくとも精神状態が不安定になっている和田は、傍目《はため》にも分かるほどに、テーブルの下で握った掌が震《ふる》え始めている。
嫌な沈黙がきた。
店内には、家族連れなどの明るい談笑があった。
プール帰りと思われる、若い人たちもいた。
それらを、遠い世界のもののように、和田は感じた。
しかし、結局は金だった。
頃合いを見計らって、和田がおずおずとそれを切り出すと、
「そうねえ」
久乃は平然と吹っかけてきた。
「そんなに言うなら、手を打ってもいいわ。百万円でどうかしら」
「百万?」
「奥さんや、重役の方にお会いして、すぐにでも訴えるつもりでいました。でも、課長さんのほうで誠意を示してくれるのなら、考え直してもいいと思います」
明らかに、恐喝だった。
しかし、脅しと分かっていても、和田にはそれをはね返すだけの、心の余裕がない。
和田の脳裏で、平穏な家庭と、充実した職場を思う感情が、めまぐるしく交錯した。
「言うとおりにしましょう」
そうこたえる以外になかった。
「だが、そんな大金では、ポケットマネーでというわけにはいきません」
「大金かしら。たった百万円ですよ。八月中には片をつけていただきたいですわ。課長さんだって、暗い気持ちで、秋を迎えたくはないでしょう」
月曜日に会社へ電話する、と、言い置いて、久乃は席を立った。
昭子は黙って、その後につづいた。
翌々日の月曜日、和田は考えた末に、曾根崎北署へ足を向けた。
三日つづけて眠られない夜を過ごした和田は、頬が、げっそりとやつれていた。
会社へ出勤したものの仕事は手につかず、そっと、所轄署へ訴え出たのだった。
ただちに、新今宮のマンションへ、刑事がとんだ。
管理人に当たったところ、昭子の勤務先は判明し、昭子と久乃が姉妹でないことも確認された。
まず、昭子が逮捕され、昭子の自供により、久乃も勤め先から、曾根崎北署へ連行されてきた。
昭子は東住吉の食品会社、久乃は阿倍野の不動産会社で働いており、職場における二人は、変哲のないOLに過ぎなかった。
「なぜ、あたしたちが逮捕されなければならないのよ!」
取調室での久乃は、どうしようもないほどに、係官をてこずらせた。
久乃には、罪の意識など一片もなかったようである。
「いくら声をかけられたからって、夜半に女性のマンションに上がり込んで、女性を抱いた男の人は罪にならないのですか」
と、口走る始末だった。
一方、昭子は、ただ、久乃と同じ留置場に入れてくれ、と、泣きわめくばかりだった。
その昭子を追及した結果、二人のウラバンの過去と、二人のレズビアンの関係が、明るみに出た。
なぜか毎年、夏の終わりに、この種の犯行が多い。
だが、レズによる美人局《つつもたせ》は、異例といえよう。
グアム島旅行の�夢�が破れた昭子と久乃は、留置場の中で、暗い九月を迎えた。
暗いのは、和田も同じことだ。
『光洋物産』は、全社挙げての販売促進月間に入ったのに、この事件が表沙汰となって、和田の人生は一転。
和田は単身、札幌営業所勤務を命じられた。