深夜の町を、所轄署の、二人の私服が歩いている。
ベテランの刑事と、向陽町一帯を管轄する派出所の、若手巡査だった。
二人とも、黒っぽいズボンに、オープンシャツを着ている。
このとき、二人は、影のような男が息を殺して内部の気配を窺っている、問題のアパートのすぐ近くにいた。
パトロールが強化された目的は、その影の男を逮捕することにあったのだが、二人の私服は、付近で発生しかけている犯罪に気付かなかった。
それも当然だろう。
いくらパトロールが強化されたといっても、アパートが立て込む路地裏を、万遍なく見て回るのは、不可能に近い。
「蒸し暑いけれど、静かな夜ですね」
と、若手が言い、
「しかし、油断はできんぞ」
ベテラン刑事は、暗い路地のあちこちに視線を投げた。
「そろそろ、奴は動き始める頃だ。性的犯罪というのはな、取り締まりが強まったからといって、そういつまでも押さえられるものじゃない」
「最後の犯行から数えて、今夜で十六日目ですね」
一体、どんな男なのか、と、若手がつづけると、軽業師みたいな奴だな、と、ベテランがこたえる。
「電柱が一本あれば、そこから二階の窓へ忍び込むことができるのだからな」
二人の私服は、寝静まった路地裏を、注意深く歩いて行く。
影の男が、深夜の町に出没するようになったのは、五ヵ月前の、一月中旬からである。
これまでに届け出があっただけでも、被害女性は二十一人を数えていた。
いずれも、アパート二階の、一人住まいの女性が襲われている。
すべて、かぎのかけていない窓からの侵入だった。
犯人は、まず、寝ている女性の肉体を奪い、半裸、あるいは全裸の被害者を後ろ手に縛り上げる。
そして、現金と、必ずパンティーなどの下着類を頂戴して、今度は堂々と、入口のドアから帰って行くのである。
手口は、常に一定していた。
だが、暗がりの中のできごとなので、相手が小柄な男というのは分かっても、被害者は、だれも、犯人の顔を確かめていない。
その上、痴漢は、決して指紋を残さなかった。
女性を後ろ手に縛るときも、部屋の中の有り合わせのタオルとか、シーツなどを引き裂いて用いるのを常とした。
要するに、物的証拠となるものを、何も置いていかないのである。
こうした慎重さから考えられるのは、前科者の線だった。
しかし、変質者の前歴を持つ人間で、土地勘のありそうな男を当たっても、問題の影のような男は浮かんでこなかった。
影の男は、警察の動きをせせら笑うかのように、犯行を重ねた。
特に、五月下旬から六月上旬にかけては、相次いで、三人もの被害者が出た。
パトロールの、一層強化されたのが、この時点からである。
すると、ぷっつりと犯行がとまった。
だが、ベテラン刑事の体験が言わせたように、変質的犯行というものは、ある日を境にして、ふいに中断されるということは有り得ないのである。
「これだけ、新聞でも報道しているのだから、皆、戸締まりをきちんとしてくれるといいのですがね」
「交通事故と同じさ。実際に被害にかかるまでは、自分だけは別だと考えるのが、人間の本能というものらしい」
ベテラン刑事は、重い吐息を漏らした。
二人の私服は、影の男が潜んでいる一角から、次第に離れて行った。
二人は右にカーブする路地を歩き、さらにアパートの立て込んでいる辺りで、左に折れた。
ところで、一連の被害者に関して、地元の新聞記者は、ある共通点を発見していた。
それは、年齢が二十五歳前後のOLということであり、どちらかといえば小作りで、色白の美人であるということだった。
そう、美人でない女性は、一人も含まれていないのである。
それはアパートの下見と同時に、犯人が、ターゲットとなるべき女性を、じっくりと選定していたことを意味する。
女性であれば、だれでも構わずに襲う、という犯人ではなかったのである。
これは、変質者の犯行としては、異例ともいえよう。
が、それはともあれ、いま、影の男に狙いを定められたのは、光永葉子、二十四歳である。
葉子は、名古屋の中心、新栄の教材販売会社に勤めるOLであり、小柄で、色が抜けるように白い。
過去、二十一人の被害者に、まったく共通するタイプであった。