そのとき、圭子が、声ひとつ立てられなかったのはなぜだろう?
客に対して、いくら不干渉であるとはいえ、喫茶店の中には、ボーイもいるし、ウェイトレスもいる。
少ないながら、若い男女の客も、何人かは雑談をしていた。
救いを求めれば、当然、だれかが飛んできたに違いない。
しかし、圭子は、渋谷の長い指先が恥ずかしい部分を押し分けてきても、声を立てるどころか、むしろ、全身を硬くさせているのに過ぎなかった。
「どうや、おまえさえその気なら、この前みたいな乱暴はしなくともええんや。今度は気持ちよく、どっかのモーテルで、オレに抱かれてみたいと思わないか」
渋谷は休みなく指先を動かしながら、勝手なことを言った。
そのたばこ臭い息遣いが、圭子には何とも堪えられなかった。
だが、怒りや憎しみよりも先に、恐怖を伴った羞恥のほうが先に立っている。
(あの夜のことは、だれにも知られるわけにはいかないわ)
圭子は、小さい胸を締め付けられた。
(あんなことを、会社の同僚や家の近所の人に知られてしまったら、あたし、もう生きていけない)
小さい胸の中は、灰色の不安だけで一杯だった。
圭子は来月成人式を迎えるが、現在はまだ十九歳である。
高校時代からのボーイフレンドは何人かいるものの、実際には、恋愛の経験もなかった。
初めての性的体験が、見知らぬ男によるレイプとは、十九歳の女性にとって、これほどの焦燥が、他にあるだろうか。
しかも、いま、内面の苛立《いらだ》ちとは裏腹に、渋谷に触れられている部分には、微妙な変化が現われ始めているのだ。
渋谷は、そうした圭子を確認した上で、残る片手でコーヒーを飲みながら、押し殺した声で言った。
「今日のところは、このくらいにしておいてやるよ」
「あたしの定期入れ、いまここで、返してくれるのね」
「あんまりじらしても、かわいそうやさかいにな」
渋谷はにたりと笑って、
「だが、今日ここで手渡すってわけにはいかないぜ」
ドスを利かせてきた。
「今度の金曜日、会社を終えたら、まっすぐ、このカメルーンに来るんだな」
「二度と、そんなことできません」
「できないことはないやろ。このつづきを、モーテルへでも行って、ゆっくり楽しもうと言ってるんやで」
渋谷は圭子の肌に手を押しつけたまま、命令口調になった。
渋谷の本心がどうであれ、圭子には逆らえるはずもなかった。
一刻も早く、定期入れを取り戻してこの店を出たい。
しかし渋谷は、ジャンパーのポケットから片手で、圭子の定期入れは取り出したものの、スカートの中の指先は、簡単には抜こうとしなかった。
「おまえの家は、太市《おおいち》駅の近くだったな。商売でもしとるんか」
「そんなこと、関係ないでしょ。どうして家のことなんか訊《き》くの?」
「後々のためだよ。何でも知っておいたほうがいいのと違うか」
と、またしても渋谷は、あの夜のことを、場合によったら隣近所の人たちにも言いふらしてやるぞ、と、ことばに力を込めてくるのだった。
実際には、暴力団組織の末端にさえ、顔を突っ込んだこともないのに、威《おど》しのタイミングは、十二分に心得ている男だった。
それは、それほどの度胸もないくせに、その筋に憧れて、やくざ映画を見過ぎた結果かもしれなかった。
圭子のような萎縮し切っている相手に対しては高飛車に出るが、本ものの地回りなどを見かけると、逸早《いちはや》く身を隠す術も心得ている男であった。
渋谷は注意深く、店内の他の客たちを見回してからつづける。
「男と女の間ちゅうもんはな、うまくやれば、だれにも知られやしない。オレの言うことを、おとなしく聞いていれば、間違いはあらへん」
「あたし、今日はまだ勤務中なのよ。いつまでも、こうしているわけにはいかないわ」
圭子は、懸命に体の向きを変えながら、やっと、それだけを言った。
知らない間に、髪が乱れていた。
(こんなことが、一体、いつまでつづくというのか)
あの夜と同じように、圭子は下唇をかみ締めていた。
家族や、親しい友人の顔が、重なり合って胸の奥を流れる。
しかし、その中の、だれにも訴えられない事柄であった。
あの夜、渋谷の仲間である西田の運転していたのが、ガンメタリックの乗用車であったことは覚えている。
乗用車のナンバーも、必死に、脳裏に刻みつけた。
だから、野獣二人の正確な氏名とか住所を知らなくとも、警察に届けて、二人を逮捕してもらうことはできるだろう。
しかし、圭子は、警察署の石段を上がることができなかった。
それどころか、一一〇番をプッシュする勇気さえもなかった。
すべてに先立つのは羞恥であり、灰色の焦燥だけが内向していく。
「いいな、デートは次の金曜日やで。間違えるんじゃないぞ」
渋谷がそう言って、ようやくスカートから手を抜いたのは、レジの横のピンク電話が鳴り、渋谷を呼び出す電話だったときである。
圭子は、慌てて、スカートのファスナーをとめた。
圭子は乱れた髪を直そうともせずに、うつむいたまま、『カメルーン』を出た。
そして、まるで転がるようにして、雑居ビルの階段を下りて行った。
渋谷は、圭子の後ろ姿を目で追いながら、ゆっくりと受話器を取った。
電話は、西田からだった。
「おい、話は、うまくつけることができたのだろうな」
と、西田は尋ねてきた。
「あの女、家がよさそうだったじゃないか。親に泣きつかせれば、まとまったキャッシュを期待できるかな」
「悪いけどな、圭子というスケは、オレがもらうで」
「おいおい、また、おかしな癖を出すつもりか」
「そういうこと。現金を巻き上げる前に、たっぷり楽しんでやることに決めた」
渋谷は受話器を持ち直した。
特に小声というわけでもないので、電話の内容は、レジの店員に筒抜けだ。
しかし、そうしたところに神経を使う男ではなかった。
この男が盛り場で注意するのは、地回りの姿だけだ。
「あのスケ、すっかり怯え切っていたで。当分はこっちの言いなりや」
「じゃしようがない。彼女はおまえに預けるとして、今夜辺りどうだい」
西田は口調を改めた。
「今日なら、兄貴の車もあいている」
「おまえも好きやな。ほな、忘年会代わりということでいこか」
「忘年会とは、恐れ入った。それじゃ、いつもの手筈でな」
「おい、せいぜいカワイ子ちゃんで、色っぽいのを頼むぜ」
渋谷は、いまのいままで圭子に触れていた右の指先を見やって、にたりと笑うと電話を切った。
渋谷は『カメルーン』を出ると、革ジャンパーのえりを立てた。
そして、何事もなかったかのように、師走の雑踏に紛れ込んで行った。
これが、十二月十七日である。
城下町の商店街は、どこも歳末大売出しで、ごった返している。
しかし、渋谷は、そうした日常生活とはまったくかけ離れた場所にいた。
ナンパを生き甲斐とするスケコマシには、暮も正月もありはしない。