雪は一日中降りつづき、夜になって上がった。
雪明かりの町に、よわい北風が吹いている。
降雪は、それほどでもなかった。
東京都八王子市内のブティックに勤めている河田美也子は、横浜線の電車で、淵野辺駅へ戻ってきた。
淵野辺駅からは、神奈中バスを利用して、神奈川県相模原市の自宅へ帰るのだが、これが、大体午後七時過ぎである。
美也子の家は、建てられてから何年にもなる、古い県営住宅だった。
国道16号線を横断して、バスで十分ほどの距離だった。
歩いても、三十分とはかからない。
時間が早いときとか、バスがなかなかこないような場合には、大通りを歩いて帰宅することもあった。
二月になって間もないその夜、美也子が淵野辺駅の改札口を出たのは、いつもと同じように、午後七時をちょっと回った頃である。
駅前はまだにぎわいを見せているし、それほど遅い時刻ではない。
(歩いたほうが早いかナ)
美也子はポシェットを持ち換え、バスを待つ長い行列を見やった。
雪のために、バスのダイヤが乱れていることは一目で分かった。
月曜日だし、いつもはこんなに込み合う時間ではなかった。
駅前の舗道は、自動車の通行に困難なほどの積雪ではなかったわけだが、美也子が乗るバスは、バスターミナルを出て国道16号線を過ぎると、上溝から峠道を越えて、相模川べりの田名へと通じているのである。
ちょっとしたことでも、すぐに発着が遅れる路線だった。
美也子と同じように、バスを待とうかどうか、ためらっている何人かがいた。
そして、その何人かが、次々と歩き始めると、美也子も誘われるようにして、混雑するバス乗り場に背を向けた。
美也子は、二十一歳の誕生日を迎えた矢先だった。
その美也子の、すんなりした後ろ姿に目を向けて、くわえていたたばこを、足元に吐き捨てた男がいる。
「ほう、なかなかええ女やないか。ええ体をしとる」
男のつぶやきには、アルコールの匂いが混ざっていた。
この辺りではあまり耳にすることのない、関西弁である。
バスの行列から少し離れた場所で、たばこをくゆらしていたこの男は、頬がこけた長身だった。
やせた横顔が、病的とも言えるほどに蒼白かった。
男はさっきから一個所にたたずみ、上り下りの電車から降りてくる若い女性、一人一人に、視線を投げかけていたのである。
「女を見るのは、久し振りやな。ほんまに、女子《おなご》はええ」
しかし、顔色の悪い男がそんなつぶやきを繰り返していたのは、もちろん、だれも知らないことだった。
勤め人たちは、だれもが、家に帰ることだけを急いでいる。
目的もないかのように、目ばかりぎらぎらさせている長身に、注意を向ける余裕などあるわけもなかった。
男は、相当にくたびれたダスターコートを着ている。
「駄目で、元々やないか。どうせ今夜のねぐらも、まだ決まってはいないんだ」
コートのポケットに両手を突っ込むと、男も駅前を離れた。
両の目は、間断なく、美也子の後ろ姿をとらえている。
男は、美也子と同じ速度で、商店街を歩き始めた。
最近はベッドタウンとして栄え、次々と分譲マンションなどが建っているけれど、やはり郊外の町である。
商店街と言っても、それほどの奥行きはなかった。
やがて美也子は家具店の先を左に折れ、横浜線沿いの細い道に出た。
周囲の明かりは徐々に遠のき、道端には、北風に吹かれる積雪が目立ち始める。
「ほう、この女、何ともお誂《あつら》え向きな場所を歩いてくれるやないか」
アルコール臭い男は、頬を過《よぎ》る北風を忘れていた。
男の神経のすべては、美也子の後ろ姿に集中されている。
美也子は、モスグリーンのハーフコートを着ていた。
背は、それほど高くはないが、コートの下からのぞく、形のいい白い脚が、男の内面に、歪んだ想像を運んでくる。
「何せ、一年振りやからな。何ぼ飲んだかて、酒だけでは駄目や」
と、男はつぶやきをつづける。
つぶやきが、だれかに話しかける口調なのは、男の癖だった。
男は「独りの時間」に慣れ過ぎていた。
細い道が緩《ゆる》い下りになると、無人踏切だった。
踏切を渡ると、外灯もぐっと少なくなる。
人家はつづいているのだが、雪の夜のせいか、どこも早々と雨戸を下ろしている。
美也子は近道をして、途中で右手の路地に折れた。
人気《ひとけ》は少ないが、人家が途絶えているわけではなかった。
美也子に特別な不安感はなかった。
ふいに、
「もしもし」
と呼びかける男の声を聞いたのは、長いブロック塀の近くに来たときだった。
背後の足音に気付いて、思わず立ちどまると、相手の影が、美也子の前へ回ってきた。
「えろう、すんまへん。お願いがあるんやけど」
と、男は言った。
外灯の下で見る身なりは薄汚れているけれども、男の話し方に、それほど粗野な感じはなかった。
「何かしら」
美也子はいつもそうするように、微笑を浮かべて、ことばを返していた。
それがいけなかった。
(よっしゃ。返事をしてくれば、もうこっちのものやで)
男は胸の奥で、赤い舌を出した。
男は、表情の変化を、雪明かりから隠すようにしてつづける。
「実は、ぼくの家は、すぐこの先なんやが、雪で自転車がはまり、動きがとれなくて困ってるんや。荷物下ろすのを、手伝ってもらえんやろか」
無論、口から出まかせだ。
美也子も、一瞬、妙だとは思った。
自転車が動けなくなるほどの降雪ではなかったし、荷物を下ろす手伝いというのも、唐突である。
しかし、急に話しかけられたことで、美也子が戸惑っていると、
「お願いします」
男は一方的に言った。
男は、美也子の帰路に当たっているこの路地を出たところに、建築中のマンションがあることを知っていた。
外装と窓の部分を残して、ほとんど完成に近いマンションである。
その鉄骨の四階建てが、男の注意を惹いたのは、午後、まだ雪が降っている最中であった。
古い仲間に冷たく突き放されて、雪が降る道を引き返すとき、男は完成間近の、その無人のビルを見た。
(建築中のビルと、一人歩きの女。注文どおりやないか)
長身の男はダスターコートのえりを立てると、美也子と肩を並べるようにして、雪明かりの道を歩き出した。