美也子が、男の吐息にアルコールの匂いを感じたのは、それから、十分とは経《た》たないうちである。
美也子は、見知らぬ男のペースに乗せられた格好で、建築中のマンションの近くに来ていた。
四階建て二棟の黒い無人のビルが、影のように行手を遮っている。
建築材などが雑多に置かれているマンションの敷地に沿って行くと、国道16号線に出るはずだった。
国道を横切れば、美也子が両親と住む県営住宅となる。
「ぼくの自転車は、この中なんや」
男は、建築中のマンションの前で、足をとめた。
(まさか!)
美也子の内面で、複雑に揺れていた不安が、現実となったのが、そのときだ。
家庭的に恵まれており、両親からかわいがられてきた美也子は、こうしたことへの警戒心が薄いほうだった。
それだけに、美也子の「防備」は、一瞬遅かったと言うべきだろう。
美也子が、本能的に身構えようとすると、それを払いのけるようにして、男の長い腕が、力を込めて、美也子の丸い肩に伸びてきた。
「自転車は、この中や」
男は同じことを繰り返したが、ことばつきががらりと変わっている。
人家はすぐ傍にあるのに、雪の路上には、まったく人影がなかった。
「あの」
美也子は小さい吐息を漏らして、男を避けようとしたが、男は許さなかった。
「ほな、お願いしたように、手伝ってもらおうか」
男は、肩に回した手をずらして、何と、美也子の右腕をねじり上げてきたのである。
そして、もう一方の掌が、美也子のくちびるを覆った。
「すぐに帰してやるさかい、おとなしくするんやで」
男は、それが、予《あらかじ》め話し合ってきた行動ででもあるかのように、建築中で暗い、人気のないビルの中に美也子を連れ込んだ。
美也子が淵野辺駅を降りてから、二十分とは過ぎていなかったであろう。
男は、やせて、病的な蒼白い顔をしているくせに、美也子の右腕をねじり上げる力は、異様とも思われるほどに強かった。
北風が吹き抜けていくビルの内部は、氷室《ひむろ》のような冷たさである。
その氷のようなコンクリート壁に美也子を押しつけて、男は、口元を封じていた左手だけを離した。
「じたばたしたら、あかんで」
「お願いです。お金なら、お金ならここにあります」
美也子は、思わずポシェットを差し出すようにしていた。
美也子の声は、恐怖を反映して、引きつっている。
「何やと」
男は美也子の右腕も離した。
「オレが欲しいのは、金やない」
「…………」
「そりゃ、金も欲しいけどな。こうなればどうなるか、中学生だって知ってるはずやないか」
男は声のない笑みを浮かべた。
美也子は、自分の全身にふるえが走っているのを知った。
ベージュのポシェットが、足元の冷たいコンクリートに落ちた。
「すぐに、家に帰してやるさ」
男は、ポシェットを蹴飛ばした。
「オレは、しつこい人間とは違うさかい」
男は、美也子には理解のできないことを口走った。
そして、引きちぎるようにして美也子のコートのボタンを外し、ベロアのミニスカートに手をかけてきた。
「やめてください! お願いです。やめてください。あたし」
美也子のことばは、意味をなさなくなっている。
日頃、人一倍性格が明るいだけに、余計、硬い表情との対照が目立った。
ミニスカートは、強引な力によって、恥ずかしい形にめくられた。
夜目にも、下着の白さが、はっきりと確かめられる。
「ううん!」
男は、美也子の下着を目にしたことで、野獣の唸《うな》り声を上げた。
「ええ女子《おなご》や」
男の顔から歪んだ笑いが消え、アルコール臭い吐息が漏れた。
「一年間。そう、オレは丸一年間も我慢してきたんやで」
男のことばには、終始、論理がなかった。
男の過去に何が刻まれていようと、通りすがりの美也子とは無関係のはずではないか。
しかし、男は、どうしようもない苛立《いらだ》ちをぶちまけるかのように、欲望をむき出しにしてくるのである。
乱暴に、パンティーストッキングがひきずり下ろされた。
二十一歳の、引き締まった白い肌が、氷室の中で、あらわになった。
まだ男の匂いを知らない、そのやわらかい個所に、アルコール臭い分厚い唇が押し当てられる。
「あ」
美也子は本能的に、半身をよじろうとしたが、男の「異常」に克《か》てるはずはなかった。
いつの間にか、男の左手も美也子のコートの下を這《は》っており、それはセーター越しに、ふくよかな乳房を、ぴたりと押さえつけていたのだ。
静か過ぎる夜であった。
雪のせいか、国道を往来する自動車の音が、思わぬ近さで聞こえてきたりしたが、コンクリートの壁に囲まれた「密室」は、完全に、夜に閉ざされている。
美也子は声も立てられないほどに、怯《おび》え切っているけれども、仮に叫び声を上げることができたとしても、だれも気付いてはくれなかったに違いない。
男の行為は、次第に、大胆になる。
男と美也子は、それぞれの意味で、寒さを忘れた。
美也子の若い体が、冷たいコンクリートの床に横倒しにされたのは、それからどのくらいが過ぎるときであったろうか。
「人間の出会いなんて、こんなものさ」
男は、思い出したように、身勝手なつぶやきを繰り返した。
男の長い指先は美也子の柔肌の奥に食い込んでおり、残る左手が、情け容赦もなく、その白い裸身を雪明かりにさらそうとする。
セーターがめくられ、スリップもはがされた。
「おとなしく言うことを聞けば、すぐに自由にしてやる。だが、へたに喚《わめ》けば、ただではおかんぞ」
男の息遣いが、正確に、荒々しくなっている。
アルコールとたばこの異臭が入り交じった、不快な息遣いだ。
男は、一体何者なのか。
雪明かりに見る男の横顔は、ぞっとするほどに、死体のような蒼白さなのである。
美也子は目を閉じた。
こうなったら、なるようにしかならない。
激しい痛みが美也子の肉体を襲い、それが背筋を這い上がってくる。
「おまえ、初めてなんやな」
男の声が、すぐ頭上に聞こえた。
男の口調には、処女を抱いたことの満足感と、そして、処女であるがゆえの、反応の定かでないことへの不満が、ごっちゃになっている。
だが、美也子は、男の不快な体臭を感じていただけだ。
恥じらいよりも、恐怖が前面に押し出されているのは当然だろう。
一時間前までは、夢想もしなかった事態なのである。
恐れと寒さのために、細かくふるえつづけるその二十一歳の肌を、男は何度も何度も弄《もてあそ》んだ。
白い、肉付きのいい腿に、一筋、尾を引くものがあった。
「ええな。娑婆《しやば》の自由ってのは、やはりええもんや」
そんなふうにつぶやく男は、自分以外のものは、すべて、どうなっても構わないという感じであった。
男が蒼白い顔を上げたのは、美也子を「密室」に連れ込んで、一時間余りが経ってからだった。
「心配することはない。オレはな、しつこく追い回すタイプとは違うで。オレは、もう二度と、この町にあらわれることもないやろ」
男の声は無表情だった。
美也子は全身の力を奪われて、ぐったりしている。
男はその美也子を冷ややかに見下ろすと、セーターひとつかけてやろうともせずに、自分のダスターコートのえりを立てた。
こつこつ、と、人気のないコンクリートの建物を出て行く男の靴音だけが、美也子に残った。