「あ」
和子は思わず声を上げそうになった。
しかし慌てて、自らくちびるをかみ締めていたのはなぜだろうか。
叫び声を発して、館内の注目を浴びることのほうに、恥じらいを覚えたのか。
そうかもしれない。
田辺の体にウイスキーの匂いを感じて、さり気なく席を移ろうとしたとき、男の手が和子に伸びてきた。
男の掌は、和子がひざに置いたコートの下側を探り、和子の指に触れてきた。
席を替わろうとした和子に、タイミングを合わせるかのような動きだった。
真冬だというのに、男の掌は奇妙に汗ばんでいる。
「あんた、ほんまにきれいなひとやな。奥さんかい?」
田辺は和子の細い指先を一本一本確かめるようにしながら、耳元に息を吐きかけてきた。
「こうやって指をさわれば、人妻かどうかすぐに分かるさかい。しかし、あんたはベッピンや」
田辺は、口調も態度も、次第に図々しくなってくる。
(大丈夫。この女は大声出して救いを求めたりはしない)
そんな確信が、実際に手を触れたことで、さらに強まっている。
それに、万一つかまってもどうということはないと考えているのだから、ふてぶてしいほどに落ち着いているのも当然だろう。
和子のような女が、何か、ことばを返せるわけもなかった。
映画は始まってから大して経っていないので、この薄暗がりは、まだ、一時間はたっぷりとつづくだろう。
足袋を穿《は》いた足の先から、徐々に体のこわばってくるのが分かった。
田辺の汗ばんだ指が、和子の指を弄《もてあそ》び始め、そのたびに、スクリーンが和子から遠くなっていく。
画面の上でも、ラブシーンが展開されたりしたが、田辺の仕ぐさは、映画の比ではなかった。
和子のような新妻が、むき出しの男女を主題とする映画など見たことはなかったけれど、田辺の行動は、まさに、ポルノ映画そのままだった。
田辺は和子の細い指先をじわじわと移動させ、やがて、自分のズボンの下側に誘い込んでいた。
「あ」
和子は再び、声を上げなければならなかった。
さっきと同じように低い声だが、さっきとは異なり、微妙なふるえを帯びている。
恥じらいのために、和子の顔に血が上った。
白い指先が、はっきりと男の変化をとらえたのである。
田辺は、もはや、一言も発しなくなっている。
ただ、アルコール臭い吐息が、乱れ始めてきた。
背後のドアが開いて、新しい観客が入ってきた。
しかし、薄暗がりに目が慣れないせいか、それとも、座席の片隅で恋人同士の寄り添っている姿が珍しくないためか、田辺と和子には何の注意も向けずに、通路を前のほうに歩いて行った。
一方で和子の指先を誘導しながら、田辺の残る右手が、和子の着物のすそを割ったのはそれから間もなくである。
男の長い指は、生きもののように、しかしゆっくりと和子の脚を撫《な》で、やわらかい肌を這った。
和子がどんなに身を引き締めようとしても、男の指の動きにはかなわない。
懸命に避けようとすると、大きく、すそが乱れた。
和子は救いを求める代わりに、ひざの上に畳んで置いたコートを広げた。
なぜそうしたのか、自分にも分からなかった。
後になって考えてみると、何を置いても助けを呼ぶのが順序だったと反省するのだが、その場は、羞恥心だけが、先に立っていた。
そして、さらに恥ずかしいことであったけれども、そのとき和子は、男の歪んだ愛撫の中で、微妙に反応を見せ始めている自分に気付いたのだった。
(こんなことが)
こんなことがあっていいわけはない。
だが、心と肉体は別なところにあった。
それだけ、(過去三十人を超える罪の経験を持つだけに)田辺のテクニックが抜きん出ていたと言うべきかもしれない。
和子は、唐突に自分を襲ってきた男を憎むよりも、自分の肌の変化に苛立ちを感じた。
夫の顔が脳裏を過《よぎ》り、そして、それが消えたとき、和子は前のシートの背もたれに片手をつき、前のめりの姿勢になっていた。
「お互い、いまこの場だけを楽しめばええ。後になって、くだくだ付け回したりせんのが、オレの主義や」
田辺は、昨夜の美也子に対したときと同じようにそう言って、さらに、指先に力を込めていった。