和服姿の女性の絞殺死体が発見されたのは、十一月十一日の早朝である。
晩秋の河口湖には、薄い霧が、流れていた。
霧の中に、雪をかぶった富士が、巨大な山影を見せている。
女性の死体は、湖畔の、白樺林の中に横たわっていた。
紫地の和服に、白い牡丹を染め抜いた帯が、女の美しさを際立たせている。
死後、いくらも経過していないことは、だれの目にも明らかだった。
霧に濡れた、白い整った横顔には、死者の乱れが現われていなかった。
きれいに手入れが行き届いた長い黒髪も、光沢を失っていない。
しかし、一目で、それが死体と分かるのは、女の下半身が、あられもなく露出されていたためだ。
派手な彩りの襦袢が無惨にめくられ、女の恥ずかしい部分が、むき出しになっている。
この女性は、襲撃者に対して、どのような抵抗を見せたのだろうか。
むき出しの柔肌は、いたるところに泥が付着している。
白足袋も、付近の枯れ草の中から見つけ出された草履も、泥まみれだった。
女の容貌が生前の美しさを保っているだけに、下半身の乱れは、なおのこと、凄惨な印象を与える。
「ひでえことをしやがる!」
発見者は、貸しボート屋の従業員二人だった。
従業員の一人は現場に残り、一人が、近くのホテルへ駆け込んだ。
一一〇番は、湖畔のホテルからかけられた。
それから十五分と経《た》たないうちに、河口湖大橋の向こうに、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
山梨県警河口湖署の捜査員が現場に立ったのは、六時半を、少し過ぎた頃である。
太陽が昇り、霧は、さらに薄くなったけれども、湖は、ひっそりと、夜の静けさをそのまま保っていた。
「寒いな」
刑事の一人は、黒いコートのえりを立て、だれにともなく、つぶやいた。
「こんな寒い湖畔で、何てことだ」
刑事のつぶやきは、そんなふうに、つづいた。
美貌の死者は、身元を明かすものを、何一つ所持していなかった。
ハンドバッグは、現場近くの、ポプラの木の下で発見されている。
しかし、オーストリッチのバッグの中には、十万円余りの現金と、簡単な化粧道具が入っていただけだ。
身分証明書の類はなかった。
だが、現金がそのままになっているところから察して、物盗りの犯行でないことは推定できる。
「通り魔の凶行でしょうか」
「夏ならともかく、こんな季節に、早朝の痴漢というのも妙だな」
ベテラン刑事にしても、戸惑うばかりだった。
絞殺に用いられたのは、ベルトのようなものと判断された。
しかし、付近一帯を懸命に捜索しても、凶器は見当たらない。
死後およそ一時間半。
すなわち、
「午前五時頃の犯行と思われます」
と、警察の嘱託医は言った。
「五時か。まだ暗いな」
コートのえりを立てた刑事は、ポプラの木の、高い梢に目を向けた。
現場から一番近いホテルでも、五百メートルの距離があった。
それでなくとも、晩秋の河口湖畔は、朝が遅い。
早朝の目撃者を期待するのは、無理だろう。
ともかく、人気の少ない場所なのである。
「犯人《ほし》もそうだが、ホトケさんもまた、何だってそんなに早くからこうした白樺林の中を歩いていたのだろう?」
と、刑事はつぶやく。
だが、幸いなことに、和服の女性の身元は、事件が発覚してから、一時間と経たないうちに割れた。
騒ぎを聞きつけた、対岸の旅館からの届け出だった。
「お客様がお一人、行方が分からなくなりました」
番頭が、河口湖署へ飛び込んできた。
宿帳には、田中紀江、三十六歳と記されている。
住所は徳島県徳島市となっている。
「四国の女か」
刑事は腕を組んだ。
「この女性客、連れはいなかったのかね」
「はい、お一人でした」
早速、遺体の確認となった。
旅館の番頭は、死者を一目見るなり、
「間違いありません」
声を詰まらせた。
「間違いなく、昨夜、当方《うち》へお泊まりいただいた、お客様です」
初老の番頭の、横顔が強張《こわば》った。
田中紀江には、本当に同行者がいなかったのか。
そう感じさせるのは、美貌と、息絶えても消えない、色気ゆえだった。
これだけの美女だ。
湖畔の宿を人目を避ける密会《デート》の場にしたことも、十分考えられるのではないか。
事実、田中紀江は、昨夜は夕食後外出し、部屋には戻った気配がないというのである。
デート相手は、別の宿を、予約していたことになろうか。
「落ち着いた方でした。どこか、いいところの奥様という感じでした」
と、番頭は言った。
いずれにしろ、犯行時刻は早朝なのだから、昨夜、田中紀江は、湖畔のどこかに投宿しているはずだ。
どうしてそのような面倒をしたのか分からない。
「やはり、男かな」
そう言ったのは、陣頭指揮をとる刑事課長だった。
徳島県警への問い合わせに並行して、湖畔一帯の、旅館に対する聞き込みが、開始された。
しかし、どこの旅館でも、田中紀江に該当する女性が訪れた事実は、浮かんでこなかった。
犯人であるかもしれない男性客が、旅館を抜け出した確証もつかめない。
ただ、大半の旅館に盲点があった。
旅館は、ほとんどが、湖に面して庭をとっている。
一階の宿泊客であるならば、庭下駄を突っかけただけで、部屋からの外出が自由なのである。
帳場では、庭先から出入りする宿泊客を、一々チェックするわけにはいかない。
そこで、コートのえりを立てた刑事たちは、行動が自由な一階の男性客を、シラミつぶしに当たってみたが、確かな線は出てこなかった。
尋問する相手は、単なる宿泊客だ。
正式な被疑者ではないから、あまり突っ込んだ質問もできない。
シーズンオフのため、宿泊客はそれほど多くなかった。
旅館の聞き込みは、午前九時頃には、ほとんどが完了していた。
この時点での結論は、「手がかりなし」である。
初動捜査が一段落した頃、そっと河口湖町を離れる乗用車があった。
ホワイトのカローラ。
くわえたばこで、ハンドルを握っているのは、藤田英明である。
湖畔の国道137号線を走り、中央自動車道のインターチェンジに向かってスピードを上げながら、藤田は、せわしなくラークを吹かしつづけていた。