(畜生! どうしてあんなに早く発見されちまったのか!)
藤田は、アクセルを踏む足に力を込めてつぶやく。
濃紺のダブルが似合う藤田は、三十五歳という実際の年齢よりも、落ち着いた印象を与える男だった。
彫りの深い横顔である。
一見したところ、少壮実業家といったタイプだ。
実際、藤田英明は、動くコンビニエンスストア『フジ』社長の肩書を持っている。
しかし、だれもいない乗用車の中で繰り返すつぶやきは、その肩書とか風貌に似つかわしくなかった。
寝不足のせいか、顔色も黒ずんでいる。
(十一月だぜ。何だって、あんなに早くから、貸しボート屋の従業員が、歩いていたのだろう?)
藤田はラークをもみ消した。
(まったくヤバイ話さ。へたをすれば、あの場でつかまっていたかもしれない)
藤田はつぶやきを声に出して、大きく、左にハンドルを切った。
富士の裾野は、紅葉の盛りだった。
紅葉の中を走るホワイトのカローラは、何の不審も抱かせなかった。
乗用車を運転する男が、湖畔殺人事件の真犯人だなんて、だれ一人として想像する人間はいなかっただろう。
だが、この藤田英明こそ、間違いなく、四時間前の殺人者だったのである。
さすがに、表情は、いつもとは違っている。
(でも、オレがつかまるはずはない)
とする自信が、一方にあった。
東京に住む藤田と、徳島の人間である田中紀江。
二人の裏のつながりを知っているのは、藤田の愛人、吉沢麻理だけだ。
どこをどう突っつかれたって、藤田を紀江と結びつける線は出てこないはずである。
しかも、最悪の事態を予感して、昨夜の藤田は、架空の住所を宿帳に記し、偽名で宿泊しているのである。
殺人の実行に際しては、手袋を忘れなかった。
暴行されたように見せかけてはいるが、藤田は、紀江の肉体に接していない。
生来の好色ゆえに、仮死状態の紀江を弄《もてあそ》んだのは事実だ。
しかし、それだけなのだ。
早朝の冷気の中では、肌を接する気にはなれなかった。
紀江の抵抗も激しかった。
が、何と言っても、藤田を思いとどまらせたのは、耳元に残っている吉沢麻理のアドバイスだった。
『あんた、どのようなことがあっても、絶対に、変な気を起こしては駄目よ』
『ばかだな。嫉《や》いているのか』
『何言ってるのよ。女性の中に残してきた体液から、血液型が割れるという話を読んだことがあるわ。証拠になるものは、チリ一つだって残さないのが賢明よ』
と、麻理は繰り返した。
結果的に、藤田は、麻理のことばを忠実に守ったわけである。
(麻理も大した女だ)
ふっと、そんなふうにつぶやき、
(オレが警察から追われる心配は、何もないのだ)
藤田は自分を納得させていた。
藤田英明という殺人者を乗せたホワイトのカローラは、予定どおり、中央自動車道に入った。
カローラは次第にスピードを上げ、東京都内へ向けて疾走した。
湖畔と違って霧はなく、晩秋の空は晴れ渡っている。
一方、徳島県警からの警察電話が、捜査本部に入ったのは、その日の午後である。
それにより、田中紀江が、徳島市内に住む未亡人であることが分かった。
どういういきさつがあったのか、紀江は三年前、貸しビル業を営む田中慎次の後妻におさまっている。
田中は当時五十二歳だったというから、紀江とは、相当な年齢の開きがある。
田中慎次は今年の六月、阿波池田で交通事故に遭って他界し、
「以来、彼女が貸しビル業を引き継いでいます。所有しているのは八万町にある四階建て八室のビル一棟だけですが、女性のわりには、遣《や》り手だそうです」
という、徳島県警の報告だった。
田中夫婦の間には、子供がなかった。
親しくつきあっていた身寄りもいない。
紀江が、何ゆえ遠く離れた、山梨県の河口湖へ出かけてきたのか、簡単には確かめようもなかった。
徳島市内の自宅を出たのが、二日前であることだけは分かっている。
しかし、河口湖までの足取りが、定かでなかった。
湖畔の旅館への投宿は、観光案内所の仲介だった。
手がかりとなるような、紹介者はいない。
河口湖署の捜査本部では、とりあえず二人の刑事を、徳島へ出張させることにした。
犯行が行きずりのものでないとしたら、解明の糸口は、被害者の生活圏にある、と、そう判断したためだ。
紀江の、旅行の目的を知ることが先決である。
しかし、徳島で、確かなものをつかむことができるかどうか。
すべては、藤田英明と、吉沢麻理の、計画どおりに運ばれたといえる。
捜査本部が慌ただしい動きを見せている頃、藤田を乗せたカローラは都内に戻り、藤田は代官山近くの、麻理のマンションに帰っていた。
東京も珍しくスモッグがなくて、空はきれいに晴れている。
麻理の部屋は、3DKの間取りだった。
九階建ての六階。
すぐ眼下には、東横線が走っており、その先には渋谷の繁華街が見える。
「ゆうべは、ろくに眠っていないんでしょ。ともかく、シャワーでも浴びてくるといいわね」
と、麻理が誘った。
部屋には、午後の明るい陽が差し込んでいるのに、麻理は薄いピンクの、ネグリジェ姿だった。
ネグリジェは透けていて、白い肉付きのいい肌と、花柄のパンティーがのぞいている。
しかし、藤田は、いつもと違って、その麻理の体を、いきなり抱き寄せるようなことはしなかった。
「シャワーは、テレビのニュースを見てからにするよ。ビールでも出してくれないか」
藤田の口調が重かった。
(おれが追われるはずはない)
そう思う反面、やはり一抹の不安感は隠せないようだった。