だが、湖畔の殺人は、テレビのニュースでは報道されなかった。
その日の夕刊でも、小さい記事となっていたのに過ぎない。
夕刊は、その大半が、東西両ドイツの交流、ベルリンの壁に関するニュースで、埋まっていた。
田中紀江については、
『行きずりの犯行か』
と、十行足らずで触れてあるだけだった。
「あの女のことは、もう、きれいさっぱりと忘れるのね」
麻理もビールを飲み始めていた。
街には、いつの間にか、宵闇が下りており、マンションの六階から見下ろす繁華街は、ネオンの彩りが目立つようになっている。
麻理は窓のカーテンを引いた。
藤田は気を取り直したように、シャワーを浴び、半裸のまま、ベッドが置かれた部屋に戻った。
ビールに酔い、熱いシャワーを浴びたことで、前夜来の疲労が、一遍に、表面に出ている。
それともそれは、犯行が予定どおりに完了されたところからくる、ほっとした気の緩みのせいなのか。
そうかもしれぬ。
藤田は、けだるい疲労の中で、欲情が背筋を這《は》い上がってくるのを感じた。
「おい、馬になれ!」
藤田の口調と表情が、ふいに、乱暴なものに変わっている。
ネグリジェ姿でビールを飲む麻理。
その麻理を見詰めるまなざしが、ぎらぎらと光ってくるのが自分に分かった。
藤田は、ベッド脇に脱ぎ捨ててあるズボンからベルトを抜いた。
今朝方、田中紀江を絞殺するのに使用したベルトである。
「早くしろ。やい、馬が嫌ならドレイになるか」
ベルトを握り締めた藤田は、背後から麻理の肉付きのいい肩に手をかけて、その体の向きを変えさせた。
「あんた!」
振り返った麻理の瞳にも、複雑で、微妙な輝きがあった。
人に隠れた、セックスの快楽によって結ばれている二人なのだった。
ついさっきまで、会話の主導権を持っていたのは麻理のほうであったが、藤田がベルトを握り締めたことで、二人の立場が変わっている。
「嫌よ」
麻理は何かを期待するように、わざと馬にはならず、ダブルベッドに、浅く腰を下ろした。
「何だ、その態度は! おまえ、オレの言うことが聞けないのか!」
藤田はさらに乱暴な行動に出ると、麻理のネグリジェを外した。
花柄のパンティーを取った。
そして、そのまま麻理を下向きにさせると、その白くて柔らかい背中に、ぴしり、と、ベルトを叩きつけるのである。
これが、二人のプレーが開始されるときの順序だった。
女の柔肌を、徹底的に痛めつけなければ興奮しない男と、男に責められなければ燃え上がってこない女。
「さあ、ここにひざまずくんだ。今夜は、いくら謝っても、許してやらないからな」
藤田は麻理の腰をけり、カーペットに倒れた、その白い裸身に、ベルトを振り下ろしていく。
もちろん、その藤田のセリフは、演技に決まっている。
そして、演技と実際との見境がつかなくなるとき、マンションの閉ざされた部屋には、二人にのみ通じるセックスの恍惚が、訪れてくるのである。
ひょっとしたら、藤田と麻理が企てた一連の犯行も、こうした性癖と表裏一体の関係にあったと言えるかもしれない。
そう、そうに違いない。
田中紀江殺害は、一連の犯罪計画の、延長線上にあった。
『何も、殺さなくてもいいじゃないか。あまりうるさく言うのなら、彼女にだけは、出資金を返してやればいい』
藤田は渋ったが、麻理は、頑として応じなかった。
『一事が万事よ。そんなことをしたら、他の出資者にも動揺をきたすかもしれないわ。面倒は、一つ一つ消していくに限るわ』
『しかし、おまえ』
『何とか理由をつけて、およそ関係のない場所へ連れ出して、片をつければいいじゃないの』
『おまえって、恐い女だな』
『何言ってるのよ。集めるだけ、お金を集めたら、あとはあたしのマンションで、騒ぎが静まるのを待てばいいんだわ』
出資者たちに勘付かれないうちに、年内に雲隠れする。
正月は香港旅行でも楽しもうという話は、前から二人の間に上がっていた。
『いまさら、善人づらしても仕様がないでしょ』
と、麻理は藤田をそそのかした。
とても、二十八歳の女のようには見えなかった。
長いことクラブのホステスをしていた過去が、麻理に独得の度胸をつけさせていたのだろうか。
しかも麻理は、藤田の責めを受けなければ一週間だっていられないくせに、逆に、それを利用していたのだった。
「ねえ、今夜はシャワーで苛《いじ》めて」
粘りつくような、ささやきを藤田の耳元で漏らすとき、そこには、
『あたしのような女は、簡単にはみつからないのよ』
という意味が込められていた。
それが分かっていながら、藤田は麻理の主張に克《か》てなかった。
「おまえは、ドレイのくせに、オレに命令したのだな!」
藤田は、コンポのボリュームを上げて、FM放送をかける。
隣室の注意を避けるためだった。
藤田はベルトを持ち直し、
「おまえみたいな女は、徹底的に懲らしめてやる!」
右手に力を込める。
演技と実際との区別のつかなくなるのが、こうしたときである。
「さあ、いつものようにやるんだ!」
藤田は、やがて、自らも下のものを外すと、叩きのめした麻理の顔の上に腰を下ろし、あることを命じた。
コンポのFM放送は、そうした二人とは関係ないかのように、クラシック音楽を流している。
麻理の嗚咽《おえつ》が、どうしようもないほどの、恍惚のそれに変わっていた。