『カモは続々と名乗りを上げてきているのに、いま警察に届けられたりしたら、すべてが水の泡だ』
『問題は、田中紀江一人でしょ。彼女を消してしまえば、いいのよ』
麻理は、こともなげに言い放った。
異性から責め抜かれることに歓びを感じるタイプであるはずなのに、こうした女の内面には、まったく相反するものも棲《す》んでいるらしい。
こうして、麻理の計画どおりに、田中紀江は、遠く離れた河口湖へ呼び出された。
河口湖畔のホテルで、幹部会が開かれるという口実だった。
『�フジ�の経営にご不審があるのでしたら、同席されたらいかがですか』
と、麻理は、徳島の田中紀江に市外電話をかけた。
紀江が、二つ返事で応じたのは、言うまでもない。
そして昨日の夕方、打ち合わせどおりに、河口湖町のバス停に紀江を迎えた藤田は、紀江の宿泊先を確認した上で言った。
『幹部会は明日、私の泊まっているホテルで開かれます。しかし、いまから事前の話し合いがあります。よろしかったら、それにも同席しませんか』
『そうさせてもらいます』
『では、夕食を終えた頃を見計らって、あなたの旅館まで、迎えに上がります』
『あたしのほうから伺います』
『いや、あの旅館は車をつけにくいから、やはりここで会いましょうか。このバス停で、九時にお待ちします』
それも、最初から、麻理と話し合ってきたことだった。
人目を避けるために、バス停で待ち合わせる作戦を採った。
ことは、すべて計画どおりに運ばれた。
いや、ひとつだけ手違いがあった。
紀江への指示はうまくいったが、夜、ホテルの駐車場を抜け出すとき、藤田自身が、ガードマンに見とがめられてしまったのである。
その場は何とか、言い繕《つくろ》った。
だが、これでは夜のうちに紀江を殺害するわけにはいかない。
後で、そのガードマンが証言すれば、自分がマークされるのは目に見えている。
そこで、殺人は朝まで持ち越されたのであるが、最早、紀江に対して言い逃れることばを持たない藤田は、人気のない湖畔でカローラをとめると、いきなり、紀江を縛り上げたのだった。
ドライブ先で麻理とプレーするときのために、ロープは、常に、乗用車内に用意されてあった。
『何をするの!』
『奥さんは、こんなふうにして、かわいがられたことはないのかな』
藤田は、紀江の白い顔にサルグツワをかませながら、麻理とのプレーでは決して味わえない興奮を感じた。
そう、これは演技なんかではないのだ。
縛り上げた紀江を後部座席に転がすと、藤田は、脂ぎった笑みを浮かべて、その着物の裾を割った。
『やめて!』
恐らく、そう叫んだのであろうが、サルグツワのため声にはならない紀江。
自由を奪われた若い未亡人の、必死の抵抗が、歪んだ欲情を倍加させる。
しかし、藤田は、それ以上の行動には出なかった。
何のために河口湖へやってきたのか、目的だけは見失っていなかった。
藤田は、人目に立たないよう、カローラを駐車場に戻した。
横たえた紀江の上に毛布をかけ、慎重に車をロックして、ホテルに戻った。
藤田は眠れないまま夜を過ごすと、まだ暗いうちに、窓から裏庭へ抜けた。
今度こそ、ガードマンに見つかってはいけない。
藤田は、湖畔に流れる冷気を、感じなかった。
人気のない駐車場へ行くと、周囲に注意しながら、カローラのドアを開けた。
紀江を引きずるようにして、湖畔の白樺林へ急いだ。
一晩中、狭い車内に閉じ込められていた紀江は、寒さもあって、ほとんど息も絶え絶えだった。
その力の抜けた白い肌を、ゆっくりとまさぐった上で、藤田は、ベルトを、紀江の白い首に巻きつけたのである。
『がたがた騒ぎ立てなければ、命まで失くすことはなかったのに』
無意識のうちに、そんな勝手なつぶやきが漏れていた。
藤田英明と、吉沢麻理が逮捕されたのは、それから四日後である。
二人の犯行は、予想もしなかったところから、アシがついた。
発端は、徳島市内の田中紀江の自室から発見された、一枚の名刺だ。
紀江が河口湖へ出かけた目的は何か。
それがさっぱり分からない捜査陣は、彼女の住所録や、見つけ出された名刺を頼りに、一人ずつ地道に当たり始めた。
そうした名刺の中に、藤田のものが交じっていた。
二人の刑事が、動くコンビニエンスストア『フジ』の事務所が置かれてある、神田のビルに姿を見せたのは、小春日和の昼過ぎである。
一人は、黒いコートのえりを立てた刑事だった。
藤田はちょうど昼食に出ており、麻理が手紙の整理をしていた。
麻理は慌てなかった。
名刺か、あるいは出資金の領収証が発見されれば、当然、捜査員がやってくるだろうと予想していたためである。
『心配することはないわ。いまは、会社のカラクリを見破られないことだけが、大事なのよ』
麻理は藤田に向かって、何度もそれを口にしていた。
遅かれ早かれ雲隠れするつもりであるし、あの夜、藤田は麻理と一緒に東京都内にいたということで、口裏も合わせている。
証拠は、何もないはずなのだ。
「なるほど。そういうことですか」
黒いコートのえりを立てた刑事は、田中紀江と藤田の名刺との関係を質《ただ》し、
「出資の問い合わせがあって、一度だけ会ったわけですか」
手帳に走り書きをした。
彼は、事件直後に、湖畔のホテルの聞き込みに回った刑事だ。
「すると、最近は、田中紀江さんに会われていないのですね」
刑事は、共同の貸し事務所になっている狭い室内を見回して、ことばを重ねた。
昼食を終えた藤田が、ふらっと戻ってきたのが、そのときである。
メモをとっていた刑事は、
「おや?」
といったように警察手帳を閉じて、藤田の顔を見た。
刑事はすぐに思い出した。
(この男は、あの日、別名で湖畔のホテルに宿泊していた人間ではないか!)
シラミつぶしに当たったホテルや旅館の宿泊客の中に、確かに、この男がいた。
刑事の脳裏を、一条の光が走った。
そして、それが、反射的に、藤田に伝わってきた。
藤田は慌てて、見覚えのあるコートの刑事の視線を避けようとしたが、相手はそれを許さなかった。
「河口湖署の捜査本部まで、同行してもらいましょうか」
ずしり、と、胸の奥に響いてくる、重い声だった。
一瞬、藤田はあらぬ方《かた》を見た。
麻理は、訳が分からないといったように横顔を強張《こわば》らせた。
思わず両掌を握り締めた藤田は、
(何てことだ。あの朝と同じ刑事が、オレの事務所へやってきたなんて)
どうしようもない絶望感が、じわじわと足元から這い上がってくるのを感じた。
共同事務所の他の連中が、一斉に、こっちを見ているのが分かった。
(これで、何も彼《か》も帳消しか)
がっくりと首をうなだれていた。
麻理は、しかし何かに負けまいとするかのように、出資問い合わせの封書を握り締めて、身動きひとつしようとしなかった。
それは、歪められたセックスプレーに耽溺しているときの二人の表情とは、およそ対照的と言えた。
あるいは、こうした気丈な一面が、この女の本質であったのかもしれない。
殺人事件が引き金となって、詐欺事件の捜査も着手されたが、すべてが明るみに出るまでには、時間がかかりそうである。