男の部屋へ影が訪れてきたのは、男が、食後の時間を、独《ひと》り無為に過ごしていたときである。
窓ガラス越しに見える空は、冷たく晴れ渡っており、中天の月が、黒い山脈《やまなみ》の上に出ている。
日、一日と、紅葉が過ぎて行く季節だった。
「刑務所暮らしなど、ぼくにできるわけはないだろう。厚い塀の中に閉じ込められるくらいなら、死んだほうが増しだ」
男は、訪問者に対して、やせた背中を見せて、言った。弱気な横顔であり、安定感を欠く口調だった。
ばかな。会社の金を短期間流用したぐらいで、死ぬことはない、と、いった意味のことを、影の訪問者は早口で繰り返した。
現金は必ず取り戻せる、と、訪問者が男に向かって何度強調しても、男は聞く耳を持たなかった。
「決済は終えてしまったのだよ。今更犯罪を隠すことはできない」
と、つぶやく男には、暗いものだけが見えていたようだ。
「いまのぼくには、とてもではないが、紅葉《もみじ》狩りを楽しむ余裕なんかないね。二度と、横浜へは帰れない」
男は戸外の月に視線を投げた。まさに、絶望的な声だった。
でもねえ、と、影の訪問者は、混乱した男を更になだめようとしたものの、これでは仕様がないな、という表情に変わってきた。
影は、男を自分のほうに向かせると、紙袋からスコッチのボトルを取り出した。
「これはどうも」
男は言った。ウイスキーは男の好物だった。
「ぼくはもう駄目だ。何もかも終わりさ」
気弱なつぶやきをつづける男は、ボトルを両手で受け取り、栓を外した。
アルコール中毒患者を思わせる目の色であり、手の動きだった。
男の目が真っ赤に充血しているのは、絶望感に見舞われての寝不足が、重なっていたためもあるかもしれない。
男はラッパ飲みで、スコッチに口をつけた。
「げえっ!」
男が異様な声を発し、スコッチのボトルが床の上に落ちたのは、瞬時の後だった。と、同時に、男のやせた体も、軽い音を立てて、影の前に頽《くずお》れた。
ウイスキーを口にしてから男が息絶えるまで、五分とはかからなかっただろう。
影の訪問者は、覚めた目でそうした光景を眺め、終わった、と、低いつぶやきを漏らした。
影は、月が見える部屋の中で、たばこに火をつけた。
一本のたばこをゆっくりと吹かしたのは、気を鎮《しず》めるためだった。
やがてたばこを吸い終えると、影は、一度室内の電灯を消したが、またつけ直して、男の絶命を確かめた。
それから、慎重に、自分が手を触れた個所を、白いハンカチでぬぐい、吸い殻を片付けた。
そして、影は、訪ねてきたときと同じように足音を忍ばせて、殺人《ころし》の部屋を出た。
指紋は消したが、スコッチのボトルはそのままだった。
床に転がったボトルからは、ウイスキーが半分ほど、流れ出ていた。
男の死は、何日か、だれにも気付かれなかった。
秋が深まった。