古都は、前日につづいての快晴だった。
道路の混雑を予想して、出発を午前八時と約束したのは正解だった。
三条通りから二条城の横を走り、西大路《にしおおじ》通りへと向かうにつれて、道は込み始めた。
行き先は、運転手に一任することにした。
「では、観光バスの行かない所へ寄りましょうか」
と、いうことで、最初にタクシーが向かったのは、北野《きたの》の等持院《とうじいん》だった。
時間が早いせいもあってか、足利《あしかが》氏歴代将軍の木像を安置する霊光殿《れいこうでん》にも、芙蓉池《ふよういけ》の庭にも、観光客は一人もいなかった。
運転手も、
「例年なら、こんなものではありませんが」
と、言ったが、郁恵は茶室から見る紅葉を目にして、
「きれい!」
思わず歓声を発していた。
駐車場へ戻ると、いつの間にかもう一台、タクシーがとまっていた。
等持院の観光を終えたのが、午前九時だった。タクシーは国道162号線を北上して、まっすぐ高尾に向かった。
北山《きたやま》が近づくにつれて、秋が深くなった。
北山杉の林をフロントガラス越しに見やって、谷田がふと口にしたのは、浦上伸介《うらがみしんすけ》のことだった。
「あいつ、しょっちゅう取材旅行をしているが、こんなふうにして京都を歩いたことは一度もないだろうな」
「浦上さんも、早くいい人を探せばいいのに」
郁恵が笑顔を返すと、無駄だね、というように、谷田は顔を振った。
「あいつ、女嫌いというわけではないが、いまのシングルライフに満足し切っているんだ」
『週刊広場』を主にして、フリーのルポライターをしている浦上は、谷田より三つ年下の三十二歳。
谷田が、大学の後輩に当たる浦上と、実の兄弟のように親しくしているのは、事件ものの取材という仕事が共通しているせいだけではなかった。
谷田も浦上も酒が強く、そして、将棋を唯一の趣味としているのである。お互い、学生時代は将棋部に属しており、町のクラブでは四段で指す棋力だった。アマとしては強いほうだ。
谷田に比べて、浦上は内向的な性格であり、そのような対照も、逆に二人の結び付きを強めてきたと言えるかもしれない。
ともかく、四、五日電話がないと相手のことが気になるという、そうした先輩と後輩であった。
旅先で、谷田が浦上を思うのは、ある種の必然だった。
郁恵も委細承知で、
「あなた、浦上さんに、地酒のおみやげを忘れないようにね」
新しい笑みを見せた。
タクシーは坂を上り切り、パークウェイを通って高尾に入った。
まだ十時前だというのに、駐車場には何台もの大型観光バスが入っており、日曜日の高尾は相当な人出だった。
タクシーは途中で左に折れた。
狭い坂道には売店が立ち並び、観光客でごった返している。タクシーは人波を縫《ぬ》うようにして高尾橋を渡り、清滝川《きよたきがわ》の渓谷に沿って走り、もみじ橋を過ぎたところで、とまった。
ここから後は徒歩で、石積みの階段を、神護寺《じんごじ》の山門へと上がるのである。
上り下りとも、観光客の行列だった。
山岳寺院神護寺は、真言宗《しんごんしゆう》の古刹《こさつ》だ。仁王門を過ぎると、松、楓《かえで》、桜などの古木を背景にして、鐘楼《しようろう》、五大堂、多宝塔などが立っている。
「いいわ。やっぱり京都ね」
郁恵は、地蔵院《じぞういん》近くの紅葉の下で、足をとめた。
そして、広い境内を一周して高尾橋へ引き返したとき、
「あなた、あの人よ」
郁恵が、ぞろぞろと歩く観光客のほうを指差した。
胸に同じリボンをつけた団体客の向こう側に、あの髪の長い女が立っている。
女は、昨日と同じ服装だった。黒革のミニスカートで、カーキ色のジャケットはウエストをゆるくベルトでとめている。
橋のたもとにある、旅館の前だった。女は、半天姿の旅館の従業員に、何か尋ねている。
「あの人、お連れはいないようね」
「うん、昨日からずっと一人だな」
女のほうでは、谷田夫婦に気付かなかったようである。
夫婦はタクシーに戻った。
タクシーは、嵐山《あらしやま》—高尾パークウェイを走って嵯峨野に抜けた。
十一時を少し回ったところだが、『清風《きよかぜ》』という湯どうふの店で昼食にした。
小一時間かけて食事を終えると、タクシーは奥嵯峨の祇王寺《ぎおうじ》へ向かった。
『祇園精舎《ぎおんしようじや》の鐘の声、諸行無常の響あり』
と、平家物語は書き出されているが、平清盛《たいらのきよもり》の愛妾《あいしよう》だった祇王、祇女《ぎじよ》の姉妹が、その地位を仏御前に奪われて、母とともに侘《わび》住まいしたのが、この尼寺《あまでら》である。
ここはまた、苔《こけ》庭に散った紅葉が美しいことでも知られている。
竹林に囲まれるこぢんまりした苔庭を一回りして外へ出ると、ここにも、あの女がいた。ここでも女は、寺院の受付で何かを尋ねている。
昨日、『京都東急ホテル』で再会したときは、品のいい人妻という感じだったが、竹林を背景にして見る彼女は、家庭の主婦とは異質な、色気を備えているようでもあった。
谷田が、そんな目で女を見たのは、関心を持ち始めた証拠だった。
しかし、祇王寺でも、女のほうでは谷田夫婦に気付かないようだった。